ポストン収容所(以下ポストンとする)では二つの文芸雑誌、『ポストン文藝』および『もはべ』が発行された。前者はポストン文芸協会により1943年2月、後者はポストン・ペンクラブによって3月に相次いで創刊された。とくに「ポストン文藝」は全ての収容所の雑誌の中でもっとも早く発行され、収容所が閉鎖になる2ヶ月前まで続いた。3年近く継続して発行された収容所雑誌は『ポストン文藝』のみである。
『若人』『怒濤』のような青年団機関誌、『鉄柵』のような文学誌とは異なり、『ポストン文藝』は一般的な娯楽雑誌の要素をもつ。さらに前述の3誌と異なる点は、帰米二世ではなく呼び寄せ(先に父が移民として渡り、のちに呼び寄せた子)を含む一世が中心となっていること、文学だけでなく、漫画から芸術論にいたるまで雑多な内容を含んでいることである。3誌が文学の創造、青年たちの啓蒙という高い目標を掲げているのに対し、「ポストン文藝」は気軽に楽しめる肩の凝らない総合雑誌であった。
『ポストン文藝』が1943年2月から45年9月まで毎月発行されているとすれば、全部で32冊になるはずである。しかし準備が遅れて発行されなかった月があると思われる。つまり32冊ではなく26、7冊しか出ていなかったのではないかと推定される。たとえば44年4月号は編集者の移動で5月に発行され、7月号は5、6月合併号となっていて、4ヶ月間に2冊しか発行されていない。『ポストン文藝』の収集は難航し、全ての雑誌を集めることはできなかったので、残念ながら何冊発行されたかを明らかにすることはできない。特に創刊号をはじめ、1943年度のものは完全には入手することができなかった。1945年のものはいくらか重複して残っている。これは初期に発行されたものが失われてしまい、収容所閉鎖の時に手元にあった雑誌を思い出として大切に持って出たためではないかと思われる。
『ポストン文藝』は前述のように娯楽雑誌の要素が強かったことから、他の収容所にも多くの読者をもっていたと推測できる。かつて文芸協会のメンバーであった外川明はその著書『蜜蜂のうた』(私家版、1962年)の中で、また重富初枝は『ポストンものがたり』(松蔭女子学院短期大学、1992年)で『ポストン文藝』について述べているが、いずれも私家版あるため、あまり多くの人の目にふれることはなかった。
一方の『もはべ』は、短歌・俳句を中心とした雑誌で、楠瀬正巳という60代の一世が短歌を書き、1944年3月にトゥ-リレイク隔離収容所に移るまでの1年間、ほぼひとりで編集した。 変体仮名で書かれた謄写版刷りの本文はたいへん読みにくく、『ポストン文藝』に比べると多少見劣りがするが、誌面からは制作者の熱意が伝わって来る。『もはべ』と『ポストン文藝』の間では交流があり、「もはべ俳壇」というページが設けられて『もはべ』の俳句が転載されている。『もはべ』は、『ジャパンタイムズ』元編集長村田聖明の回想録『最後の留学生』(図書出版社、1981年)の中で紹介されている。
1. ポストン収容所の生活
ポストン収容所の正式名称はコロラド・リヴァー戦時転住所で、カリフォニアとアリゾナの州境近くのコロラド・リヴァー・インディアン保留地の中にあった。このあたりはかつて先住民モハベ族の居住地であったが、当時彼らは少数で、保留地には北部から移動させられたナヴァホ族系の人びとが多く住んでいた。ポストンというのは略称で、南北戦争の頃アリゾナ州の先住民対策の責任者であったチャールド・ポストン大佐の名に由来するという。
WRA(戦時転住局)の管轄する収容所としてはもっとも早く設置され、1943年まではWRAよりもむしろインディアン総務局が中心となって監理した。収容所はユニット1、2、3の3地域に分かれており、ユニット1は最寄りのパーカー駅の南18キロの所にあって1万名を収容することができた。ユニット2、3はそれぞれ定員が5,000名で、同駅から32キロ、37キロの地点にあった。収容所はユニット1、2、3を第1館府(キャンプ)、第2館府、第3館府と呼んでいた。全体でほぼ2万名を収容できるこの収容所は、10ヶ所の収容所の中で最大規模であった。
収容所はモハベ砂漠の中にある。夏の最高気温は摂氏50度近く、冬は零度まで下がることもあり、夏冬の温度差が激しい。タルカムパウダー状の土壌は、風が吹けば砂嵐となって一寸先も見えなくなり、バラックに容赦なく吹き込んで室内はたちまち砂が積もったという。砂嵐の猛威は「風うなり つなみの如く打つ砂に 建つバラックも 見えつかくれつ」(歌集『ちぎれ雲』日本文芸社、1965年)という一世の風戸登代の短歌によく表されている。一帯は木といえばメスキート、草はセイジブラッシュしか生えていない荒涼とした風景であった。夏の暑さは耐えがたく、ポストンは「猛暑」の代名詞となった。
1942年5月8日最初の立退き者が到着して以来、多くの人びとが南カリフォルニア、フレズノ、カーンなどのサンウォーキン平原地方、サクラメント、南アリゾナから仮収容所を経ずに直接送り込まれた。サンウォーキンなどの熱さに慣れた人びとでも、摂氏45度という気温に加えて砂嵐、サソリやガラガラ蛇(収容者は「鈴蛇」と呼んだ)などの襲来には閉口したようである。村田聖明は「真夏の平均気温43度というモハベ砂漠はまさに焦熱地獄であった。バラックの日陰から日なたに出ると、ガスがまのフタを開いたときのような熱気が顔を襲った」(『最後の留学生』、120ページ)と書いている。筆者は真夏にこの地を訪れたが、現在の収容所跡地は緑の農地に変っているとはいえ、屋外ではほんの数分しか立っていられないほどの目もくらむ暑さであった。
* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。
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