Hidemitsu Miyamura

1944 年1 月1日、パラグァスー・パウリ スタ市にて、宮村季光と敏子の長男として生まれる。幼少期、北パラナー州アプカラナ市で日本語を学ぶ。1967年 にパラナー国立大学工学部を卒業。 1968年ブラジル日本電気株式会社に入社、2001年に退職。この年独立して新し いリサイクル産業を展開。妻アリセ加代子の間に、 一男(ドゥグラス秀洋)と一女(エリカ洋美)をもうける。2005年に「限りなく遠かった出会い」のエッセイ集を出版。サンパウロ新聞などに投稿。趣味は歴史ものを読むこと。


(2013年1月 更新) 

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限りなく遠かった出会い

義父

            薬漬 医学の進歩に 泣ける老い

            妻逝きて 知る木枯らしの 冷たさを

この俳句は義父、上村正治が晩年の孤独の中で詠んだ句である。義父は長年趣味として和歌を綴り、それをサンパウロ、ニッケイ両新聞の歌壇、柳壇などに投稿していた。それを読むたびに私は、義父の心とその雰囲気が写生されたかの様で心を打たれたものである。

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義父は、和歌山県出身で上村家の男3人女4人の次男坊である。10歳の時1928年、家族とともにサントス丸で移民として来伯した。兄弟中で一番の働き者であったようである。サンパウロ州奥地のべラクル―スの耕地に入り、苦労の果て独立してドラセーナ市で店を経営するようになった。

妻静子との間に2男4女をもうけ、6人の子どもたちへ最高教育を与えた(医科大3人、文科系2人、工科系1人)。義父は来伯のため小学校を4年生で中退して以来、正規の学校に通ったことはないが、日本語の読み書きはほとんど独学でマスターしていた。曲がった事の嫌いな真の「ジャポネース・ガランチード」の象徴であったといえる。

60歳の時腸の大手術を受けてたため、それ以来、終始健康に気を使っていた。妻静子は75歳で脳貧血を患い、その2年後の1997年7月、家族に見守られ他界した。その当時、息子二人はまだ独身であったが、娘は4人とも結婚しており、孫9人がいた。

妻に先立たれた義父は、家族に迷惑はかけまいと、老人ホームである「憩の園に住む」と決断し、2001年5月にこの世を去るまでの4年間、そこでお世話になった。

義父が憩の園にお世話になっているあいだ、私達家族は、よく見舞いに行った。そのため、憩の園での生活の様子をいろいろと知ることが出来た。

カリタスの尼様方の行き届いた心のこもった気遣いや、慈善ボランティアとして陰から支える方々の成果が、日常の細かな所に見うけられた。しかし、そこには見舞客がほとんど無く、淋しく暮らしている老人も決して少なくない。また、他の入園者達をねたみ、子供のようにいたずらをしたり意地悪をする者もいる。「おしっこがこぼれて便器が汚れている」と文句を言う人もいる。その一方で、見舞いにきた家族から貰ったおやつを、気の合う者同士で分け合ったりする楽しい光景などもよく目にしたものである。憩の園では、皆々様に本当に良くしていただき、家族一同、心からありがたく思っている。

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義父は、元々真言宗であったが、憩の園に入園後、思うところがあったのか、熱心なカトリック信者となりヨハネスと言う名前で洗礼を受け、心から満足していた。

そんな義父は、憩の園へ入園しても、詩を詠み続けた。以下は、憩の園で綴ったものである。

夕食の 済みたる廊下 ただ一人
老婆は唄う 童の歌を

尼様も うかれて踊る ジュニーナ祭り

これは、義父が憩の園で出会った琴を弾く品の良いご婦人について詠んだものである。その方は左腕がやや不自由で車椅子を使っていた。義父とはとても気があったようで、よくご婦人の車椅子を押しながら園内を一緒に散歩していた。おやつも一緒だった。

サンパウロ新聞に掲載された義父の次の短歌は、そのことについて詠んだものである。

ほのかなる 恋に似たるか 朝夕の
車椅子押す 老い八十二歳

しかしこの詩が掲載された後、自分の胸のなかにそっと大事に仕舞っていた心情を、急に露にしてしまいその反響を心配したのか、義父は思春期の少年そのものに還ってしまったのである。まるでいたずらがばれてしまった子どもが親から隠れるように、義父は医者である長男に電話して、至急迎えにくる様にと頼んだ。

義父の心の揺れがおさまるのに一週間ほどかかり、恥ずかしそうに「憩の園へ戻る」と言った。私は妻アリセと共に、義父を憩の園へ送っていった。そこには琴のご婦人のこぼれる微笑みが、さわやかに輝いていた。

今まで見たことの無かった義父の人間味を見た。「ソーグロ1もなかなかやるな」と、思った。

注釈:

1. 義父

 

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限りなく遠かった出会い

結婚式

先日、友人の長男の結婚式に招かれた。カソリック教会での華麗な披露宴で立派な、気持ちのいい雰囲気であった。

この友人とは、仕事を通して知り合い、今でも一緒に仕事をしている。実はこの友人、私の家族と古い関わりがあっったのだ。父、宮村季光(1995年他界)の残した日記には、まだ独身で、サントス市で歯の技工士をしていたころ、彼の祖父、吉廣爺(よしひろ)にお世話になったことがいくつも記述されていた。。

そのひとつに、次のくだりがあった。

 一九四二年二月十二日、今日は僕の二十八歳の誕生日である、何かお祝いをしなくてはならないと思ったが、一人ではどうにもならないのと、仕事に忙殺され、ついつい一日暮らしてしまった。

四,五日ぶりに吉廣氏宅に行く、皆喜んで迎えてくださった。吉廣氏は男らしく、自分の態度を明らかに表示する方だ。吉廣夫妻も「運命ですから、、、、」と言って、何とも切ない表情をしておられた。(長女の)光子さんがお茶を持ってきたときに、奥さんが、「光子さん、宮村さんは結婚なさるそうだよ」と言われる。光子さんは、「アラ、、そう?」と言っていた。良い奥様だ、賢い奥様だと感じた。

十二時半まで、吉廣氏夫妻と社会問題を語る。シンガポールの戦局に、我が皇軍は、威力を持って邁進しつつある。我が軍、市内に立ち入りする、山下中将より、降伏勧告状を英軍司令官に出す。

父は当時良く吉廣氏宅を訪れていた。夫妻は長女の光子さんと父の婚約を望んでおられた。吉廣夫妻のいう「運命」とは、ちょうどその頃、父が私の母である敏子と出会い、恋をした事を指している。

このことについて、母が2003年に亡くなる前、父の日記を私と二人で読みながら、当時のことを私に語ってくれた。父と出会った頃、母は心のうちに別な人を思っていたという。父の片思いであったらしい。もしもこのいきさつが少しでもずれていたら、私の人生も大きく変わっていた。70年後、吉廣氏夫妻のお孫さんと友達になり、そのご子息の結婚式に立ち会うなんて、本当に不思議な因縁としか言えない。

光子さんは、この友人の叔母にあたり、今年の初めに亡くなられた。この披露宴の席上には、光子さんの親戚の方が幾名か出席されていて、話しをする機会も得た。私が父の読みにくい崩し字の日記を、無理して読み通していなかったら、この事実は永遠に知ることができなかったのである。

ところで、日系コロニア社会の結婚式は、司会者と新郎新婦の代表の方たちが祝辞を述べるさいに、両家とお二人の履歴をのべるのが常であった。しかし、最近の披露宴は現地化してきて、両家について説明されることが少なくなったようで、少し寂しい気がする。最後まで、新郎新婦のどちらかについて、まったく知らぬままに終わることもある。

数10年前、私が勤務していた日本の大手企業の副社長のご令嬢様が、アメリカに留学していた日本の方と結婚することになり、私も式に招かれて参列したことがあった。この結婚式はサンパウロのコンソラソンの近くのカソリック教会で行われた。新郎新婦を前に神父さまが、賛美歌の音の流れとともに挙げるミサも終わり、壇上の両側には両家の方たちが参列していた。通常、新郎と新婦はこのとき、両家と関係者の方たち一人一人に祝福の挨拶をし、抱擁(ハグ)をするのがごく普段である。

しかし、あの時、副社長の令嬢は、しずしずと両親の前に出て、「お父様、お母様、長い間御世話になりました、本当にありがとうございました」と神妙な面持ちで挨拶をし、深く頭を下げたのであった。これを見た参列者たちは、ブラジルの結婚式ではあまり見ることのないしんみりとした場面に圧倒されると同時に、感動して「しゅーん」となった。

ちょっと変わった、この一瞬が常によみがえる。

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Nikkei Chronicles #2—Nikkei+: Stories of Mixed Language, Traditions, Generations & Race

キムチとカブとニンニク

東北レシーフェに用事ができたので飛行機の便を予約した。サンパウロへ帰る前、ブラジリアに寄る事にした。そこには昔からの知り合いがいるので、サンパウロから何か珍しいものをおみやげに持って行くことにした。その友人がサンパウロへいた頃、私たちはよく日系人が経営するゴルフの練習所へ行き、キムチをつまみにビールを飲みながら汗を流していたのを思い出し、近くの韓国食料品にあるキムチとカブの赤唐辛子漬けとニンニクを持っていくことにした。

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しかし、店でキムチとカブの赤唐辛子漬けとニンニクを手にした時、「あっ!これはヤバイ!」と感じた。臭いが強烈だったのだ。やめようとしたら、お店の主人が、「うまく梱包するからダイジョウブ」と自身満々。丁寧に、何回も密閉した容器をお肉屋さんのようにセロファンをまきつけてくれた。しかし、家へ帰る車内、すでにすごい臭いがした。後の悲劇を予感させる物があった。

うちに帰って出張の準備を終わらせると、妻が「これはなあに?」と、興味深く例の包みを持ち上げた。事情を説明して、家においておくことにしたと話すと、「あら!それでしたら私に良いアイデアがありますよ!」と、さっさと包みを持っていき、なにやらし始めた。アルミの包みにしたら大丈夫だと言うのだ。「そうかな」と首をかしげているうちに、さっさと手さげ袋に入れて、飛行場まで送って行く車の後ろに詰め込んでしまった。

コンゴニアス空港でチェックインを終わらせた後、手さげ袋を持って待合室のあいた席に座り、時間が来るのを待った。隣にはやや年配の人が座った。新聞を広げて読み出したが、すぐにきょろきょろしだした。そのうちに立ち上がって別のところへ座った。私はヒヤッとした。足元に置いた袋から、あの否定できない臭いが漂っていたのだ。いっそうのこと手洗いに行って、そっと、ごみ箱に入れて処分しようかとも思った。しかし、「待てよ。変に誰かに見つけられ、疑われて、質問などされたりしたら・・・」と思い、やめることにした。

しかしこうなると、「これはっ!」という名案はなかなか浮かばないものである。そこで「待てよ、機内ではエアコンが効いていて、気圧の調整と頭上から吹き付ける空気の効果を考えたら、ここ待合室がヤマバだ」と自分自身に言い聞かせることにした。そのうち、機内まで持ち込めば危機は回避できるという確信が沸いてきた。

時間がたつに従い、胸は高鳴り、冷や汗がにじみ出てきていた。航空会社の従業員がこちらに向かってくるのが見えた。私は緊張して、手持ちの週刊誌の記事を穴が開くほどにらみつけた。チラッと目を上げてみると、その従業員は通路を横切って、左のほうへ行ってしまった。これで助かったと思った。

時間が来て、ぞろぞろと列を作って機内へ入っていった。窓際の座席に座り、隣に誰も座らないように心の中で祈った。いつもなら誰か美人でも座ってくれたらと、期待するのだが、あのときだけは、空席であるように拝むような気持ちでいっぱいだった。しかしそんな期待は数分で裏切られた。太った六十代のおじさんが通路側に座った。中席はまだあいたまま。ナムサンと手を合わせ、わらにもすがりつきたい気持ちでいると、ようやく乗客の搭乗手続きは締め切られた。足元に置いた手さげ袋は依然として、憎らしいほど臭いを放っていた。

離陸後、待望のエアコンが効き始めた。頭上の空気出口を目いっぱい空けて、冷たい空気が吹き付けるのを気持ちよく感じた。「それ見たか!」と、満足感を味わったのは一瞬のことだった。どこからともなくあの強烈な臭いが漂ってきた。レシーフェまでの飛行時間はなんと三時間!気が遠くなるような我慢が必要だ。機内に持ち込んだ以上は、もうどうにもならない。窓から捨てるわけにも行かないし、スチュワーデスに頼んで冷蔵庫に入れてもらうにも、頼みがたい。不安と悩みはいっこう収まらなかった。通路側のおじさんが立ち上がった。スチュワーデスに密告されると思って、ヒヤッとした。幸い、飲んでいたビールのせいで、手洗いに行っただけだった。足元の袋が気になって覗き込むと、むっとする強烈な臭いがした。あの臭いには本当にマイッタ。「ヌンカマイス!」(never more)とはまさにこのことだ!

レシーフェに着き、ホテルでチェックインを済ませると、すでに夜中の十二時半になっていた。部屋に入るなり、冷蔵庫に包みを放り込んだ。しかし、その数分間で、部屋はむんむんと臭った。恥ずかしいが仕方がない。翌日、掃除の人が冷蔵庫を開けたら、ぶったまげるだろうと思いながら、申し訳なくそっとホテルを出た。

要件を済ませた後、ホテルへ戻る前にスーパーに寄って魚など入れる手ごろな箱を買った。そして、その箱に例の包みを入れ、セロテープでしっかりとまきつけた。

翌日、ブラジリア行きの機内では、幸い臭いは緩和された。期待した効果は充分あって、今度は裏切られなかった。迎えに来てくれた友人に、手さげ袋を渡した時、やっと悲劇から開放され、ホッとした。

友人は、私がどれだけ大変な思いをしてサンパウロからこのキムチを持ってきたのかしらない。しかし、このキムチを食べながら、当時私たちがよく行った日系人の経営するゴルフの練習所のことを懐かしく思ってくれれば、頑張ってブラジリアまで持っていったかいがあったというものだ。

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限りなく遠かった出会い

お風呂と味噌汁

私は子供の頃、よく白人に「Ei! Japones」と呼ばれた。こう呼ばれると、何となく白人から「見下され」、「別物扱い」されている様に感じた。

実際、この呼び方は、日系人を蔑む形でよく使われていた。これは日本人同士の集団性といったような白人社会には理解出来ない日常の習慣とか、ポルトガル語の発音のなまりが原因だったのかもしれない。また、日系社会は二流から三流社会層の家庭が中心で、学問はできても白人の中・上流社会とは縁が薄く、そこにはわれわれ日系人が入れない壁があった。当時の私たちにとって、信頼できる「ガランチード」という評判が救いであった。

あの頃の日系人とは何であったのだろうか。今の日系人とは何であるのだろうか。私たちはどう見られているのだろうか。もしも私たちが日系人でなかったら、見下されることはなかったのだろうか。

しかし、最近は日系人に対する見方が変りつつあるようだ。

ブラジルは多国民構成国であるため、人種識別が浮き彫りになることが多く、人を見るとき、人種だけでなく、背景にある国民性と国家イメージをも見る。日系人に対する見方は、日本の国民性なども影響しているのは確かである。

そして、私たちに対する見方が変ってきたのは、日本のイメージが向上したからだ。敗戦後、日本は高度成長を遂げ、世界第二位の経済大国の地位を獲得した。これは現在のブラジル国内での日系人評価の大きな土台になっている。

日本が高度成長を成し遂げた背景には、物作りの優秀性と企画力が決定的であったと思う。同じ事は、ドイツ(機械技術、レンズ技術)、イギリス(造船技術)、イタリア(加工技術)、スイス(時計技術)に対しても言える。

では、日本人固有のイメージとは何なのであろうか?

おそらくそれは、戦国時代から培ってきた武士道という精神であろう。しかしこの武士道の精神は、長年私たち日系人を「Ei! Japones」と呼ぶブラジル白人にはあまり理解されていなかった。武士道は、日系人の滑稽さをアピールするコマーシャルにしか使われず、ブラジル白人達には、ゆがんだ形で日本人像が伝わった。

しかし2003年、映画「ラストサムライ」の世界的ヒットを機に、それも大きく変わった。それまでは、日本の文化を笑いの対象として描くものが多かったが、この映画では日本人精神、すなわち武士道の良さに焦点を当てていた。この映画は、習慣の違いを滑稽なものとして描き売り物にするのではなく、「品のある美」として表現していたのである。結果、文化の違いの美を知る事が、教養としてみなされるようになった。「ラストサムライ」のヒットは、明らかに日系人のイメージ向上に一躍買ったといえる。

そして数年前からは、日本からのゲーム、アニメ、音楽といった文化が若者を中心に圧倒的な人気を集めている。もう「Japones」が見下される事は無い。私達の見られ方は変ってきたのだ。

数年まえ亡くなった伯父が言っていた事思い出す。「なんと言ってもブラジル人には、お風呂と味噌汁の味はわかりゃせん!」。しかし、これももう通用しなくなった。今、ブラジルでは「お風呂」ブームだ。先日行ったすし屋は、満員だったが日系客はまったくいなかった。そこで、白人カップルの一人が「源さん!オアイソウ!」と言って手を上げたのに目が止まった。味噌汁をすすっていた。

さすがに、天国に居る伯父も完全に裏切られたのである。

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* * *

追記:上記は十年前に記述した当時の私の見解である。その後、私たちの日常を揺るがすような出来事があった。世界を震撼させた2011年3月11日の震度9.0の東日本大震災である。史上最大級の津波、初めての原子力発電所メルトダウン事故・・・第二次世界戦争の原子力爆弾による世界初の国民へ対しての破壊などを体験した世界唯一の国日本に世界の注目が寄せられた。特に震災直後、暴動や略奪を起こさなかった日本はて世界のメディアに賞賛された。

さらに、体力的にも他国の選手に差をつけられながらも粘り強くフェアープレイをもって戦った日本の男子サッカーチームと世界に感動を与えた「なでしこジャパン」に対し、入退場時に送られた世界からの応援とサポートに答える感謝の心。私はそれをみて世界が日本を見る目はさらに変わったと実感した。そこには日本人独特の礼儀そのものを感じた。

それはブラジルでも、私たち日系人の日常生活で肌に感じるところがある。

 

* このエッセイは2004年にサンパウロ新聞に記載されたものに一部修正を加えたものです。

 

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限りなく遠かった出会い

法要とお墓参り

ブラジルの主な日本人家庭では、身内の誰かが亡くなると、先祖代々信仰してきた宗教に応じて葬儀を行う。仏教徒の場合、初七日、四十九日、一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌と法事を行う事が普通である。西本願寺、東本願寺、浄土真宗、真言宗等、宗派によってお寺を良く確認して行かぬと戸惑う事がしばしばある。

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週末になると、ほとんどのお寺の周辺は車で渋滞し、駐車するのも大変である。私は年に7、8回ほど親戚や知人の法事に出席する。昔はむしろ結婚式に招かれることの方が多かったが、最近は圧倒的に葬儀と法事が多くなった。年をとるにつれて葬儀が増えていくことは仕方のないことだと思っている。

しかし、最近の法事は大分変わってきたと思う。出席者の7割以上が日本語の分からない日系人や白人である。彼らがじーっとお経を聞いて、お焼香をしている姿が何となく不自然に見える。日本語のお坊さんのお説経を解からないまま我慢して30分以上も聞いてご苦労な事だが、やはり亡くなった方達への思いやりと儀式に従う義務感がそうさせるのであろう。

お経だが、手元に配られる経文のほとんどは、ローマ字で印刷されている。これでは何が何だかさっぱりわからない。なんの意味かも解からないままお経がとなえられる間、私達の頭の中には何が浮かんでいるのだろうか。やはり、亡くなった方達の霊も今そこにきて、お経を聞いて喜んでおられると思うことで、お経の意味が解らずとも、まぁこれはこれで良しとしなければならないと思う。

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通常、法事の勤行は約一時間ですむが、あまり長くなると考えものだ。先月行った親戚の法事は、お坊さんのお経だけで1時間45分もかかった。その後、45分もの間、ポ語のお説経が続いた。結局、お説経で何を言ったか一言も覚えていない。私も物覚えが悪くなったものだとあきれてしまうほどだ。覚えていることといえば、お寺の中で蒸し暑さを我慢しながら、法事の後に出てくるご馳走を、チラチラと頭に思い浮かべていた事くらいだ。自ら情けないものだとつくづく思った。

しかし、法事というものは、亡くなったものを偲びながら、親戚や知人と共に亡き人の生前の事を懐かしく語り合う和やかな一時であり、実に気持の良いものだ。それが法事の最高の価値だと思う。

10年前、母が亡くなってから私は母の存在の偉大さが計りきれないものだと言う事を再認識した。母が常に大事にしていた仏壇は今、私が引き取って我が家にある。それを見るたびそこに母がいて、私達を見守っていてくださると信じている。ありがたい事である。

さるお盆の日、コンゴニヤス墓地にて子供達と私の祖父母のお墓参りをした。ふと、代々のひ孫達を前に微笑む祖父母の笑顔が目に浮かんだ。祖父母が私の母を生み、私達がそのひ孫を生んで、今ここでお墓参りをしている。そしてやがてこの輪廻は繰り返されるのである。永遠に、宇宙の真理はなんと神秘的で不思議な事であろう。

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* このエッセイは2004年にサンパウロ新聞に記載されたものを一部修正したものです。

 

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