Select a primary language to get the most out of our Journal pages:
English 日本語 Español Português

We have made a lot of improvements to our Journal section pages. Please send your feedback to editor@DiscoverNikkei.org!

自分史に見るブラジル戦後移民と戦争の深い関係

現在世界最大200万人の日系社会を誇るブラジルも、最初は日本人移民25万人から始まった。戦後移民はそのうちの約5万人を占める。

戦後派の最大の特徴は「戦争経験者」「元満州移民や満州生れ」が多いことだ。調査がないので実数は分からないが、邦字紙記者25年の実感としてはこうだ。戦後移民の半分は数年で日本に帰国したが、残った人の4分の1から3分の1ぐらいは満州経験者ではないかと思う。

満州から本土に引揚げてしばらく生活したが、大陸で生活した経験からすると、日本の国土では何かと「狭苦しさ」「窮屈さ」「食糧難のひどさ」などから、再び外地に出たいという希望が湧き、当時数少ない移住再開国だったブラジルに大挙して渡った部分があると想像される。

だから、移民の書く自分史には戦争体験が多い。たとえば2005年に日系社会の文芸賞「コロニア文芸賞」を受賞した自分史『草原』はその代表格だ。

野澤今朝之(けさゆき)さん

著者は野澤今朝之さん(けさゆき、故人)で、幼い頃を過ごした北満州での厳しい開拓の生活や家族の死、日本へ引き上げてからも続いた戦後の不幸や、コチア青年として1957年に来伯してからの様子、デカセギ時代など激動の人生が素朴な言葉で淡々と書かれている。

ニッケイ新聞にも2007年に全文転載し、好評を得た。当時の神田大民デスクは記者コラムの中で、《元陸軍の将校だったという八十二歳は、ぜひ野澤さんの所に香典を届けたい、焼香したい、と住所を問い合わせてきた。満州における悲劇からもう六十二年経ている。きけば、実兄が旧満鉄に務めていて、野澤さんの家族、親類と同じ目に遭った、他人事とは思えない、ということだった。毎日涙なしには読めない、と言い、筆者と話をしている間にも泣いた。声がつまって話が聴き取れなくなった。この人にとって、まだ満州は風化していない。野沢さんの文章を読んで感極まったのである》と読者から寄せられた感想を紹介している。


シベリア抑留者には大したことなかったアマゾン移住

シベリア抑留経験者の谷口範之さん

1957年、アマゾン移民としてパラー州グアマ連邦移住地に家族で渡った谷口範之さん(のりゆき、広島県出身、故人)は2009年、人生の締めくくりに当って壮絶な戦中戦後の体験を記した自分史『私のシベリア抑留記』を遺した。満州出兵、シベリア抑留という戦後移民ならでは悲惨な体験を記したものだ。

終戦の半年前に第119師団歩兵連隊機関銃中隊に入隊し、満州国の北西部に渡った。伊列克得(いれくと)で陣地の築城作業中にソ連軍が侵攻し、「わずか4日間の戦闘で、連隊は半減した」という地獄を見た。

8月18日にロシア軍に抑留され、「家畜のごとく」貨物列車に一晩詰め込まれて収容所(ラーゲリ)へ。「朝点呼で起きて外に出たら、ウッと息ができない。あまりに空気が冷たくて」。食うや食わずで移動させられ、強制労働。ツルハシを地面に振り下ろすと、カンッという甲高い音と共に跳ね返された。地表は完全に凍結していた。

抑留を終え、1947年1月、長崎県佐世保に着いたとき、入隊時に58キロあった体重は40キロに減っていた。「飢餓線上をさまよい、音さえ凍る極寒と強制労働に耐え、灼けつくような望郷の思いに苛まれた抑留の日々であった」と当時の経験が綴られている。

シベリア抑留後から帰国10年後の1957年5月、妻の家族と共にパラー州のグアマ連邦移住地に入植した。入植時の受け入れ施設はまったく整備がされておらず、雨期には農地が水没するような酷い移住地で、入植者の多くが夜逃げした。だが、谷口さんは「シベリアに比べれば大したことなかったですよ」と笑い飛ばした。


満州から戻ると故郷の村民の半分が戦死

回顧録を手に持つ山城勇さん

ブラジル沖縄県人会長や沖縄文化センター理事長を歴任してきた戦後移民・山城勇さんは、2017年、自分史『回顧録―おしどり米寿を迎えて』を出版した。

1928年に糸満市米須で生まれた山城さんは、43年に満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し満州へ渡った。終戦後は大連で2年間の避難生活を経験した後に引き揚げ、58年に第4次沖縄産業開発青年隊としてブラジルに渡った。

山城さんは16歳の時に満州で終戦を迎えた。玉音放送の直後、義勇軍の《上官たち数人が、部隊で飼われていた豚を、軍刀で片っ端から切り殺していく姿を目の当たりにした。良く見ると、豚は首半分切りの頭を引きずりながら、血を吹き、広場を駆け回っている。半殺し豚があちこちでぶつかり合っていた。軍人魂の悔し紛れの仕打ちとは理解するものの、あまりにも酷い感じがした》(118頁)と生々しい描写がされている。

大連で2年近く避難生活を続け、47年にようやく引揚げ。《故郷沖縄は厳しい地上戦で家族は全滅してしまったものとばかり思いながら、長崎佐世保に引揚げた。胸中、県民玉砕で家族全滅の沖縄に帰っても仕方ないので、北海道に行先をきめて、収容所で待機していた。その時、恩師山城幸吉先生と偶然出会い、家族の生存を知らされた。急きょ方向転換し故郷米須(こめす)に帰還しました》(挨拶)。

父と弟の二人は戦死したが、他7人は九死に一生を得ており、4年ぶりに涙の再会を果たした。米須は、現在ひめゆりの塔が建つあたりから海岸までの地区で、沖縄本島最南端に位置する。地上戦の決着地であり、最も被害の多い地区だ。山城さんによれば同地区の250家族中、全滅が62家族。人口でいえば1252人中、半分以上の648人が戦没者だった。

終戦後も沖縄は米軍に占領され続け、《県民は拘束状態で軍靴に踏みにじられ、産業のない島で食糧や職業が少ない。さらに海外引き揚げ者も多く、人口の自然増は毎年2万人とあって、大きな社会問題となっていました》(挨拶)。

そんな引き揚げ者の多くが再び海外を目指した。《しかも1950年に朝鮮動乱が勃発すると占領軍は、軍事基地拡張のために強制的に農地接収を至る所で行うようになった。沖縄が再び戦乱に巻き込まれはせんか、と県民は不安におののいた。そこで平和でよりよい生活を求めて海外へ海外へとの気運が再燃しました》(同)という経緯でブラジルへ移住した。


「島は動かせないが、人は移民できる」

沖縄タイムスから2014年に出版された『未来に継ぐ裔孫』(赤嶺園子著、ニッケイ新聞編)を手に持つ赤嶺園子さん

戦後移民・赤嶺園子さんの自分史の叩き台を読ませてもらった時、衝撃を受けた。沖縄戦の最中、血だらけになって「私はもう死ぬのですか」と父に問うシーンで始まっていたからだ。

普通の自分史なら「いつどこで生まれたか」という描写から始まり、子供時代の幼い頃の懐かしい、ほのぼのとした思い出がつづられる。ところが彼女のそれには、懐かしさを漂わせるニュナンスは一切ない。子供時代の温かい思い出など存在しないかのようだ。いきなり沖縄戦の厳しい描写から、その人生の1ページが始まる。

彼女が生まれた西原村は、沖縄本島中部の那覇市の反対側に位置し、米軍が激戦を繰り広げた場所の一つだ。その結果、家族5人が尊い犠牲となり、幼かった彼女自身も、山の中の避難所にいたにもかかわらず爆撃を受けて火傷を負った。その時の言葉が冒頭の問いかけだ。

この体験がトラウマとなり、彼女と家族の人生を決めた。移住動機を質問した時、彼女は「島は動かせないが、人は移民できるから」と答えた。そんな風に考えた人がたくさんいたから、戦後、沖縄からたくさんの移民がでたのだろう。

戦前にブラジルに渡っていた伯父が良い生活をしていると聞き、《戦争のない国ブラジルへの渡航を決意しました。以後機会あるごとに父母にブラジル行きを懇願するのですが聴許かないません》。だが結局は拝み倒して家族ごと移住した。

「万が一、また戦争に巻き込まれたら…」との恐怖感に背中をおされて、南米へ向かった形だ。沖縄に残った人たちは「少しでも戦争を遠ざけたい」から、ことある毎に基地問題を持ち出す。移民も基地問題も、裏には理屈をこえたトラウマがある。

地上戦を生き抜いてきたことへの感謝、「自分が今生かされているのは、ご先祖様のおかげ」という想いが、日々の行動の根底にある。

園子さんが人生の大事な判断をするとき、つねに秤の一方には「戦争」があった。「戦争」と「異国での苦労」を秤にかけたら、後者に軍配が上がった。平和に暮らせるなら、国籍や文化や言葉が異なる海外移住も厭わないというわけだ。

自分が言い出して家族をブラジルへ連れてきた責任感からか、身を粉にして家族に尽くす。どんな困難にも前向きに立ち向かい、ありとあらゆる知恵を駆使して解決してきた。日本にいたら開発できなかった隠れた自分の才能を、困難に直面することによって発揮し、ブラジルでの人生を切り開いてきた。

終戦から76年が経ったが、沖縄県には今も日本全国の米軍基地の7割が集中している。この事実からは「緊張感のある状況」は変わっていないことが分かる。もしも北朝鮮が核ミサイルを発射したら、中国の人民解放軍が攻めてきたら、真っ先に狙われるのは沖縄であり、いつの日か、再び戦場になる可能性は否定できない。

だから、彼等にとって戦争のないブラジルで末裔を増やすことは重要なのだ。沖縄県人は、いざという時の布石をすでに打っている。

父が亡くなった時、連絡が取れなかった弟が出棺直前に突然帰宅したなど、家族が見えない糸でつながれている実話が自分史には描かれる。「土地を移ることで言葉や文化が変わっても、たいした問題ではない。家族の絆さえ変わらなければ」。そんな確信が行間からにじみでている。とにかく子孫を残す。それがご先祖様から命を受け継いだウチナーンチュの宿願だ。

* * * * *

沖縄であれ、日本本土であれ、個人の力ではどうしようもない故郷が持つ属性を、国民の方が「国境を超える」というプロセスを踏むことによって、自分の人生においてプラスに作用するように向けることが「移住」の本質なのだと、ブラジルの戦後移民を見ていてしみじみ痛感する。

 

© 2021 Masayuki Fukasawa

Amazon brazil Manchuria Okinawa post-war immigrants Siberia war