出生と家族
タケシ(タック)・マツバは1926年12月5日、バンクーバーで、カメジロウ・マツバとジヨ・マツバの元に生まれました。彼が生まれた正確な場所は不明ですが、助産師の助けを借りた自宅での出産であったと彼は考えています。長男として、彼には、マスミ(マリエ)とミキヨ(ミキ)という二人の妹、そして、ノボル(ギャビー)とタクミという二人の弟がいました。レモン・クリークの収容所で生まれたタクミを除いて、全員がバンクーバーで生まれました。タケシと同様に、タクミのニックネームもタックだったので、彼らはそれぞれ「タック1」、「タック2」と呼ばれました。
タックの両親は和歌山県出身でした。彼の母は御坊に近いフジと呼ばれる村で、彼の父は、カナダに多くの移民を送り出したことで知られる海岸沿いの町、三尾村で育ちました。タックの父はカワグチと呼ばれる漁師の家に生まれましたが、母方のおじ、キクマツ・マツバに子供がいなかったため、彼の養子となりマツバの姓を継ぎました。興味深いことに、タックの実の祖父は漁船に乗ってはるばる北海道まで行き、タックの父親はその時ボートの中で生まれたのでした。
正確な日付は定かではありませんが、彼の祖父と父がカナダに渡ったのは1900年前後だったとタックは思っています。祖父のキクマツが先に行き、タックの父は17才で彼の後を追いました。彼らが海を渡った正確な理由はわかりませんが、当時彼らの村でまともな暮らしをするのが難しかったからだとタックは考えています。三尾村は半農半漁の村でしたが、両産業とも生産性が低かったため、多くの人が他の場所で生計を立てなくてはなりませんでした。
彼の祖父が初めてカナダに到着した時、バンクーバーの市庁舎はまだテントの中にあったとタックは聞かされました。他の多くの日本からの移民の若者達と同じように、タックの父は、実際の年齢よりも若いと偽り、ストラスコーナ小学校に通って英語を勉強しました。彼はその後帰化し、カナダ市民となりました。
タックの母は、当時一般的であったいわゆる写真花嫁の一人としてカナダに渡ったため、カナダに到着した時初めて未来の夫に会ったそうです。彼らはイースト・コルドバ通り151番地の二階建ての建物に住んでいましたが、タックの養祖父キクマツ・マツバはそこで、乾物と日本の食材を扱う小売店を始めました。その建物には十分な部屋数があり、家族全員でそこに住むだけではなく、近くの会社で働く日本人男性に余った部屋を貸すことができました。タックの父カメジロウはキクマツの店の経営を手伝いました。1935年、キクマツはバンクーバー総合病院で肺結核のために51才で亡くなり、カメジロウがその店を引き継ぎました。
タックが思い出す限り、家族はバンクーバーでの暮らしを楽しんでいました。彼の父は、医者に行く等助けが必要な人のために通訳をするのに十分な英語を話しました。彼は彼の母が英語を話すのを聞いたことはありませんでしたが、子供達が言っていることは全て、特に良からぬことを企てる時は、理解しているようでした。
抑留前のバンクーバーでの生活
タックはメソジスト教会が運営する幼稚園、ストラスコーナ小学校、フェアビュー商業高校に通いました。マツバファミリーは実はストラスコーナ学区の東の境界の半ブロック外に暮らしていましたが、タックの父親は、彼が通ったのと同じ学校に彼の息子を通わせたいと学校の職員に掛け合い、タックを入学させることができました。
戦争が始まると、彼はグランドビュー商業高校に転校しました。彼はまたバンクーバー日本語学校に通い、そこで、日本語のしっかりとした基礎を身に付けました。それは後に彼の家族が日本に送還された時、彼の助けとなりました。学校には日本人以外の友達も何人かいましたが、それ以外彼の友達は全員日系カナダ人でした。残念なことに、戦争とそれに伴う強制退去によって、彼の学校教育は中断され(当時10年生であったと記憶しています。)、彼は高校を卒業することができませんでした。当時、特にこれといった将来の夢は抱いていなかったようで、彼曰く、
それはとても昔のことです。私はまだ十代初めで、友達と遊びに行くことが何よりの関心事だったと思います。当時の大半の子供達のように、第二次大戦前の校外の生活はポーウェル通りの運動場で野球やソフトボール、サッカーをすることを中心に回っていました。私はまた、合同協会の体育館でバスケットボールもしました。
彼には抑留前の差別の経験の記憶はあまりありませんが、彼の両親を含む地域のたくさんの人がそれについて話していたことは覚えています。「私はバンクーバーで育っていましたが、祖先を忘れることは決して許されませんでした。私は今も、そして、これからもずっと日本人だったのです。私の両親は、私達が不利な状況にあるという基礎認識に基づいて私達を育てていたので、私達は常に大人しくしていなくてはなりませんでした。私達を咎める口実を白人に作らせるようなことは決してしませんでした。彼は彼と他の日系カナダ人のバスケットボールチームメンバーが実際に差別を経験した時のことを、特に鮮明に覚えています。
私は、私が加わっていたグループが差別を受けたことをとてもよく覚えています。それは夜間外出禁止令が実施される前のことだったと思います。日系カナダ人バスケットボールチームのメンバーとして、私達はニューウエストミンスターに行きました。そこで、私達はサレーの試合相手チームに出迎えられることになっていました。私達がウエストミンスターに着いた時、私達を出迎える人は誰もいませんでした。伝達上の行き違いか、その他の理由があって、私達は長い時間待ちました。時間をつぶすために私達はボーリング場に行きましたが、日本人であるという理由で、ボーリングをさせてもらえませんでした。私達はまず最初に私達がカナダ人であることを彼らに伝えましたが、彼らは私達にボーリングをさせようとはしませんでした。やっと友達が迎えにきた時、かなり夜遅くなっていましたが、私達はサレーに着き、体育館の薪ストーブを移動させ、試合をすることができました。どちらが勝ったのかは憶えていませんが、ソニー・オオハマという人がいたのですが、後年、日本で、映画「おばちゃんのガーデン」で知られるリンダ・オオハマが来日してあった時に、ソニーが彼女のおじであったことが判明しました。
第2回に続く
注
1.ここは現在、ブリティッシュコロンビア州裁判所となっています。
2.ノーム・マサジ・イブキ “Tak Matsuba’s Odyssey from Vancouver to Osaka -Part1” ディスカバー・ニッケイ、2014年3月19日
3.リンダ・オオハマの映画「おばちゃんのガーデン」
写真キャプション
マツバファミリーが家業を営んでいたイーストコルドバ通り151番地は現在、ブリティッシュコロンビア州地方裁判所となっています。
© 2020 Stanley Kirk