ディスカバー・ニッケイ

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コレマツ裁判の終結 (英語)

(英語) コレマツ氏が着席すると、ペタル判事は判決を言い渡しました。そして判事は後に記すことになる意見書の基となった声明を発表しました。再審請求がされたことにより、政府の不正行為に関する深刻な問題が浮き彫りにされた、と判事は述べました。決定的となった証拠は、政府管理下の文書として残されていたのです。ぺタル判事は、こうも言いました。「コレマツ裁判は法律書に書き残されることになるでしょう。しかながら、私たちは、世の中が戦争状態にあるとき、このようなことは誰にでも容易に起こり得るということを記憶の中にしっかりと刻み込まなければなりません。そして誰も、このような扱いを受けてはならないのです。」そう言い終えた判事は、立ち上がり、法廷を後にしました。

その後私たちは、しばし言葉を失ったかのようにその場に座り続けていました。しだいに人々が立ち上がると、皆は興奮状態にありました。泣いてる人たちもいました。そして全員がフレッドに走り寄り、彼の背中をたたいて祝福しました。パーティをしているかのような、そんな感じでしたね。私の場合は、抑えきれない感情があふれ出てきて、とにかく胸がいっぱいでした。そんな状態でしたから、自分が報道陣や誰かに話をすることができるかどうか自信がありませんでした。でも私はうれしくてたまらなかったのです。この裁判に挑み始めた時、私はこうなるだろうとは全く予想していませんでした。この時までのさまざまな偶然や出来事が積み重なり、その結果としてこの判決がもたらされたと私は考えています。法廷の中で私は一歩下がったところから周囲を見渡していました。傍聴に来ていた人々のほとんどが日系人でした。私は、この判決が彼らに与えた影響の重大性を痛感していました。


フレッド・コレマツ 法律

日付: 2000年10月27日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ロレイン・バンナイ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

1940年ピーター・アイロンズ氏はマサチューセッツ州セイラムに生まれました。アンティオック大学の学生だったアイロンズ氏は、政治運動や社会運動に参加するようになり、人種差別やベトナム戦争、労働者の権利に関わるデモ活動に率先して携わるようになりました。1966年、アイロンズ氏は徴兵拒否により3年の刑を言い渡されました。刑期を終え、政治学の博士号を取得したアイロンズ氏は、ハーバード・ロー・スクール(ハーバード大学の法科大学院)に進みます。そして大学院在学中に再審要求をした裁判で、アイロンズ氏は裁判所が過去に下した判決を無効にすることに成功しました。その後アイロンズ氏は教鞭をとる道を選び、カリフォルニア大学サンディエゴ校の教授となりました。

アイコ・ヨシナガ・ハージック氏が、国立公文書記録管理局から主要文書を発見したことが原動力となり、アイロンズ氏は、最高裁判所が下した強制収容に関わる裁判判決を覆すために動き出すこととなります。その文書は、第二次世界大戦中の合衆国政府の不正行為を示す証拠として、1942年の日系人に対する集団強制収容の「軍事的必要性」の非合理を証明するものとなりました。1983年、ヒラバヤシ、ヤスイ、コレマツの3件で再審要求が申し立てられ、結果的に全ての裁判で、過去の有罪判決が覆されました。それらの裁判による勝利は、日系人に公正な裁きをもたらしただけでなく、同時に補償運動への呼びかけを正当化するものとなりました。(2008年4月15日)

キャサリン・ドイ・トッド

控訴裁判所での仕事(英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

A. ウォーレス・タシマ

優等生ではなかった(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

A. ウォーレス・タシマ

日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士