ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/841/

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

(英語) たくさんの議論がなされてました。当時、日系人は収容所から出て国内東部へ移動するか、日本へ国外退去させられるか、ブリティッシュ・コロンビア安全保障委員会による継続的な圧力がかかっていました。日本への帰国を選んだ者には、政府は200ドル支払い、また全ての所有物を日本へ送る、というちょっとした利点を与えたのです。1人につき200ドル支払われるということでしたから、それは日系人に日本へ帰る方を選ばせるための餌のようなものでした。もちろんほとんどの人たちは、「なんで日本へ行かなくてはいけないんだろう...」と言っていたし、特に若い人たちは「どうして?自分は日本人ではない。カナダ人だ。」と言ってましたよ。結局、政府は約7、8千人に帰国を同意させましたが、結果的にはその半数は行きたくないと意思表示していました。


カナダ 国外追放(expatriations) 移住 (migration) 戦後 第二次世界大戦

日付: 2006年7月25・26日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: トム・イケダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ヘンリー・シミズ氏は、1928年ブリティッシュ・コロンビア州プリンス・ルパートで生まれました。第二次大戦中シミズ氏は、ニュー・デンバーに強制収容され、終戦後、現在の居住地であるエドモントンへ移り住みました。医学部を卒業したシミズ氏は、整形外科医となり、その後、医療関係の数々の要職を務めました。また、1989年から2002年には、日系カナダ人リドレス基金の会長を務めました。画家でもあるシミズ氏は、強制収容所の体験を題材にした数多くの作品を手掛け、それらの作品は、様々な場所で展示されています。シミズ氏のコミュニティへの貢献は高い評価を受け、1999年全カナダ日系人協会より表彰を受けました。また、2004年には、アルバータ大学の卒業生に贈られる賞を受賞し、同年、カナダ勲章を受勲しました。(2006年7月6日)

チエ・トミヒロ

話すことを阻んだ恥の意識 (日本語)

JACLシカゴ支部の補償委員会の委員長

ロベルト・ヒロセ

少数の日本人家族と共に育って(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

ジョージ・ヨシダ

それでも、日本人 (英語)

音楽家 (1922年)

キャサリン・ドイ・トッド

収容所体験の影響 (英語)

アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)

ポーラ・オヨス・ハットリ

祖父のアルゼンチン移住 (スペイン語)

日系アルゼンチン人、三世

高木一臣

日本を離れ、いざアルゼンチンへ(スペイン語)

『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)

クリフォード・ウエダ

兵役志願(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

ルイス・ヤマダ

戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

マルガリーダ・トミ・渡辺

戦中に救済会に送られた救援金

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

マルガリーダ・トミ・渡辺

戦時中の救済会の役割

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。