ディスカバー・ニッケイ

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イナハラ・シャント(英語)

(英語)血管外科の手術に必要なのは、血管を開いた状態で手術をする間(側路を作り)血液の流れをわきに逸らすことです。血流を止めないための措置です。私は、血管を閉塞させないために使われる、頚動脈シャントというものを発明し、特許を取りました。そして2人の共同開発者と会社を興し、この製品の製造と販売を始めました。頚動脈シャントは、現在も使われています。このパンフレットに載っているものです。

I*: 見せていただいてもよろしいですか?ジョン(カメラマン)撮れますか?

JE**: カメラをフォーカスするのでちょっと待ってください。

I: トシさん、少し説明していただけますか?

はい。これは、管腔、チューブですね。両端には風船状のものが付いています。このチューブに血液が流れ、風船が頚動脈をふさぎます。これがシャントですね。構造の中に風船を使うというアイデアに特許を取りました。

I: これはいくらくらいかかるものですか?

100ドルかそれくらいでしょう。私たちは会社を売却したので、今は別の会社の製品です。

I: 発明にはどのくらい時間がかかりましたか? そうですね。1982年に特許を取り、その2年後に製造を開始しました。これは、「イナハラ・シャント」として知られていますが、長い方には「プルーイット・イナハラ」、短い方には「イナハラ・プルーイット」と名づけました。

*"I" はインタビュアー(アケミ・キクムラ・ヤノ)
**"JE" はジョン・エサキ(カメラ)


特許

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

トシオ・イナハラ医学博士は、1921年4人兄弟の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。3歳の時、家族とともに日本へ6ヶ月間滞在、その後、アメリカのタコマへ帰国した後、彼の父は和菓子屋、風月堂をオープンし成功しました。子供を田舎で育てることを望んだ父は、1931年にオレゴン州ポートランドの30マイル西にある農場へと引っ越しました。

1941年12月の日本による真珠湾攻撃を機に、西海岸にいる日系アメリカ人に対して集合センターへの移動命令が公布されました。しかし、イナハラ一家は旅行許可書を手に入れ、オレゴン東部の州境にあるオンタリオの近くへと自主的に移動しました。1942年、トシはアメリカ空軍へ志願しましたが、日系人という理由で拒否されました。

2年間家族の農業を手伝ったあと、トシオはウィスコンシン大学へ入学し医学を学びました。戦後はポートランドへ戻り、1950年オレゴン大学で医学博士を取得します。その後、インターンシップ・医学研修期間を終了した彼は、ボストンのマサチューセッツ病院で血管外科医として訓練を受けました。その後ポートランドへ戻り、個人で開業するかたわら、オレゴン大学の医学学校にて外科医学の臨床講師として務めました。

現在、イナハラ博士は頚動脈内膜剥離術(carotid endarterectomy: CEA)における世界で最も権威のある医者の一人であり、プルイット・イナハラ頚動脈シャントの共同発明者でもあります。(2005年12月6日)

フランセス・ミドリ・タシロ・カジ

医師免許取得のためトリリンガルになった父 (英語)

一世医師の娘(1928-2016年)

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医師の一日 (英語)

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日系二世の医師が受けた差別 (英語)

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父と手術助手の看護師を見送った日のこと (英語)

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