和菓子職人だった父 (英語)

家族構成(英語) 12歳で1930年のフォードを運転(英語) 4C-敵性外国人-に分類(英語) イナハラ・シャント(英語) 大学進学を勧められて (英語) 和菓子職人だった父 (英語) 自己アイデンティティは日本人の子孫 (英語)

書き起こし文章は右記の言語でご覧になれます:

(英語)和菓子職人だった父を想い、父が日本のどこで修行したのか調べようと思いました。ちょうど日本に住む私の従兄弟も、父が働いた場所をたどろうとしていました。私が最後に日本を訪れた際、私たちは、父が岐阜市の「風月」という饅頭屋で働いていたことを突き止めました。父の作る饅頭や和菓子は、本当に洗練されていたので、父が京都でも修行したのではないかと考えています。父が作っていたような菓子は、ロサンゼルスのリトル東京では見たことがありません。 父は、ありとあらゆる種類の饅頭、和菓子を作りました。桃やりんごのような様々な形をした菓子を作り、色づけをし、菊形の菓子も作りました。羊羹の中に絵柄を描くこともありました。さらには、饅頭以外にもカステラや餅はもちろんのこと、かき餅などあらゆる菓子を作っていました。

父の菓子屋のことも記憶しています。ブロードウェイとタコマ通りにあったのですが、いまだに住所も覚えていますよ。「1510ブロードウェイ」でした。私が最後にタコマに行ったのは、1月前、タコマ同窓会に参加した時です。菓子屋のあった場所には、今ではタコマ・コンベンションセンターが建っているのですが、当時の店のことはよく覚えています。ショーケースが3、4台あって、その中はいつも菓子や饅頭で埋め尽くされていました。当初、私たちは店の2階のホテルに住んでいたのですが、その後、借家に住むようになりました。もちろん当時の私は、いつでも父の作った饅頭を食べることができて、それは本当に美味しかったですよ。

父はオレゴンで引退しましたけど、きっと何かしたかったのでしょう。ポートランドで再び店を開きました。父は饅頭と羊羹を少量作り、確か5、6年ほど店を続けることができました。不運なことに、高速道路建設のため、父の店は立ち退かなくてはならなくなったのです。父は、店をたたむことを余儀なくされ、その後、家族のために家で菓子を作るようになりました。私たち家族は、父の作る最高に美味しい饅頭を食べ慣れてしまっていたので、どこかに出かけて菓子を買っても、全然満足できなかったですね。贅沢なことですよ。

日付: 2005年12月6日
場所: 米国、オレゴン州
Interviewer: アケミ・キクムラ・ヤノ
Contributed by: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

fugetsu manjyu yokan

ここでは、オーラル・ヒストリーインタビューに必要な基礎知識をご紹介します。

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