ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/403/

戦時中に参加した日本での兵役訓練(英語)

(英語) 朝になると白い上着ともんぺに着替えチームに分かれます。赤組は赤い鉢巻をして。私達が受けた訓練はそんな感じでした。とても寒くて・・・たまたまその日が寒かったのかしら?とにかく寒かった記憶があります。竹槍を持ち、指揮官が「前へ!前へ!」と言うと、その号令に合わせて前へつきました。そして「アメリカ進駐軍が来たらどうするんだ?」との問いかけに、また前へ前へとつくです。私達が(敵に)強姦されるとか何とか、そのような事は言われませんでした。でもこの様なことをして(攻撃に)備えていたのです。


日本 軍事訓練 第二次世界大戦

日付: 2003年8月3・4日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

マリオン・ツタカワ・カネモトさんは1927年12月30日にワシントン州シアトルで生まれた日系二世の女性です。子供の頃日本で15ヶ月過ごした後、シアトルへ戻り中等教育を受けました。真珠湾攻撃の後、彼女の父はFBIに拘束され、司法省管轄のモンタナ州ミズーラの収容所へ収監されました。彼女自身はピュヤラップ集合センターからアイダホ州ミニドカ収容所へ収容、ミニドカにて父と再会しました。1943年、彼女の家族は日本へ戻ることを志願したため、アメリカ政府による捕虜交換船「USSグリプスホルム号」にて日本へ送還されました。日本で高等教育を受け、戦時中は空襲訓練などにも参加しました。戦後のアメリカ軍占領下の日本で、同志社大学へ入学し、アメリカ軍基地の病院図書館で働きました。その後、アメリカへ帰国し、ミネソタ州ロチェスターのセントマリー教育実習病院に入学。戦中に日本へ送還されていたため、収容所に対する戦後補償を拒否されましたが、集団訴訟の結果、1996年に補償を得ることに成功しました。

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

シズコ・カドグチ

東へ移住か渡日かの選択(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

囚人のように思えた収容所生活(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

制度化されたシステムの悪影響(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ビンス・オオタ

決してなることができない日本人(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

フランク・ソギ

1941年12月7日の記憶(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

MISで出会った本土からの日系人(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

当時の収容所に対する認識(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

日本の親戚を訪問(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フランク・ソギ

アメリカ占領下の日本(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フレッド・コレマツ

犯人探し (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

フランク・ソギ

日本国の再建(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)

フレッド・コレマツ

最終判決 (英語)

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)