https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/366/
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
(英語)ダン・イノウエ(上院議員)は第442連隊がキャンプ・シェルビーにいたころの様子を話しています。そこでは「ブッダ・ヘッド(仏頭)」と呼ばれていたハワイの日系人と、「コトンク」と呼ばれていたアメリカ本土の日系人の間に摩擦があり、けんかが耐えなかったそうです。ダンの話では、あまりにひどいので442連隊を解散させようかという意見がでたほどでした。話し合いなども行ったようですが、全く効果がありませんでした。
そこで誰かがハワイの連中に本土の日系人が経験したことを見せたらどうかと、素晴らしいアイデアを思いついたのです。ダンの話では、ハワイグループのリーダー格の何人かがバスに乗せられ、収容所を見るためにアーカンソー州のジェロームまたはローワーに連れて行かれたそうです。彼らは収容所を見て非常に驚き、それから「コトンク」に対する態度が変わったそうです。ダンは「収容所に入れられるなんて、私達(ハワイの日系人)がそんな目にあったら、はたして(軍に)志願などしただろうか」と言っています。
でもねミチさん、でも私には余りピンと来ませんでした。私もローワーやジェロームに連れて行かれれば・・・私の叔父などは収容所にいましたけど・・・。確か叔父もしばらく家族と共にジェロームにいて、それからツールレイク(強制収容所)に移ったのだと思います。
こんな皮肉な話があります。私が軍人として海外に出征するという丁度その時、幸運にも日本との戦争が終わりました。その後サンフランシスコのフォート・メイソンに異動になったので、叔父に会いにツールレイクに立ち寄ったのです。米軍の制服を着た私が、ツールレイクの収容所に入れられた叔父に会いに行くために(セキュリティー)チェックを受けなくてはならないのです。なんとも皮肉な感じでした。
日付: 2004年3月18日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ミシェル・マキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました
博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。
コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)
東へ移住か渡日かの選択(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
囚人のように思えた収容所生活(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
制度化されたシステムの悪影響(英語)
日系人収容者の取り扱いに対する懸念を表す公文書(英語)
1941年12月7日の記憶(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
MISで出会った本土からの日系人(英語)
当時の収容所に対する認識(英語)
犯人探し (英語)
大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)
最終判決 (英語)
収容所へ戻ろうとした時(英語)
政治活動家(1927-2010)
JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)
戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)
収容所の中での教育(英語)
カリフォルニア州ガーデナで育まれた順応性と競争心 (英語)
弁護士 (1946年生)
二世が戦中体験を語るきっかけとなった賠償運動の役割 (英語)
真珠湾攻撃後のFBIによる家宅捜査 (英語)
教師(1937-2021年)