ディスカバー・ニッケイ

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市民権を取り戻す(英語)

(英語)当時アメリカでは、外国人と結婚すると(米国)市民権を喪失してしまったのです。また全ての外国人、特に日本人である一世は、市民権を獲得できませんでした。従って(土地など、米国で)何も所有することができませんでした。ですから(一世の)農民は皆、農場をはじめ自分達がもっているものは全て(市民権を持った二世の)子供の名義にしてありました。 私の家は、姉が亡くなったあと弟の名義に変えたため、後で大変面倒なことになりました。

私の主人は日本で生まれ、小さい頃にアメリカに移ってきました。私は(日本人である主人と結婚したため、米国市民権をいったん喪失したので)市民権を取り戻すために(移民局に)申請しました。(市民権を得るには)合衆国の歴史を少し学び、そのあと裁判所に行っていくつかの質問に答えなければならなかったので、(申請後)すぐにクラスに通い始めました。市民権を取り戻したときは嬉しかったですよ。その時移民局の人が小さな合衆国の国旗をくれました。もちろん私達が収容所に移ったときは(やっと取り戻した市民権が収容所では何の意味ももたなかったため)市民権のことをすごくからかわれましたけど・・・でも市民権を取り戻したときは本当に嬉しかったです。


市民権 差別 政府 対人関係 政治

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

トシオ・イナハラ

4C-敵性外国人-に分類(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・アズマノ

真珠湾攻撃後にアメリカ軍から除隊(英語)

アズマノトラベル創設者

アルフレド・カトウ

戦後リマでの体験談(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

アルフレド・カトウ

日本人に対するステレオタイプ: 昔と今(スペイン語)

ジャーナリスト(1937生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

JACLの全米書記マイク・マサオカの1942年のスピーチへの反応(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

戦中のニューヨーク市での最初の印象(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジョージ・カツミ・ユザワ

真珠湾攻撃後の近所の同情(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

PJ・ヒラバヤシ

子供のころ体験した差別(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

映画制作で行った小細工(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

終わることを知らない人種差別 (英語)

作家(1934年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

藤間勘須磨

日本ではアメリカ人として、アメリカでは日本人として踊る (英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

政治権力の欠如が収容所の一因(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)