https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/276/
公民権運動の政治活動家(1922年-2014年)
(英語) 中心通りであるパシフィック・アベニューを運転していた時、それまでは見たことがなかったのですが、兵士や海軍の軍人がヒッチハイクして各々の宿舎に向かっていたんです。サンペドロには海軍基地や、フォート・マッカーサー軍基地もありました。私は「こんな光景は見たことがないわ。」と思いました。軍人がヒッチハイクですよ。そして偶然バスク人の、スペイン系ですね、同級生を見つけて、彼もヒッチハイクしていたんです。だから私は彼を呼んで、こちらに来るよう言ったんです。
「何が起こったの?」と私が聞くと、彼は車に乗り込んだんです。だから、私は「どこに向かえばいいの?」と聞いだんですが、彼は「ニュース報道とかラジオを聞いてないの?」と言うので「聞いてないよ。何があったの?」というと、「日本がハワイの真珠湾を爆撃してる。だからみんな警戒態勢に入ったんだ。」と彼は言うんですよ。そしてフォート・マッカーサー軍基地に連れて行くように頼まれて、私はそうしたんです。私はただ困惑して、日本がハワイ、というか真珠湾を攻撃したなんて信じられなかったですよ。
その後、私は教会に行ったんですが、その時初めて妙な気持ちを感じました。それまで私は、自分は他の白人のアメリカ人と同じだ、という気持ちでいましたし、自分は生粋のアメリカ人だと思っていたんです。でも教会に行ったら、みんなが私を見る目は、それまで知っていたアメリカ人を見る目とは違うんです。私の生徒達でさえ、なんと言えばいいか、どうしたらいいかわからないという様子で、日本人である私に対してどうリアクションを取ればいいかわからない様子だったので、私はみんなとは違うんだ、ということを感じたんです。それに教会全体がどうしたらいいかわからない、という感じでしたしね。だから日曜学校は早めに切り上げられました。その後、私がいつもそうしていたように、生徒の子供たちを一斉に車に乗せて一人ひとり家まで送り届けたんです。子供たちを車に乗せている間も何か違っていて、たぶんみんなアメリカの領土が爆撃された、ということをちゃんと知っていたからなんでしょうね。
日付: 2003年6月16日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。
戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)
刑務所で出会ったアメリカ人達(英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
アメリカでの差別は十分にわかっていた(英語)
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
成功しなければならなかった(英語)
才能をもった第100歩兵大隊の人たち(英語)
「沈黙の合意」(英語)
『負け組み 』-日本敗戦認識運動
負け組みの主要メンバー
地域によって違った差別の状況 (英語)
南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)
謝罪の必要性(スペイン語)
詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)
こみ上げる怒り(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)
休暇中にマンザナールを訪問できなかったこと(英語)
渡米後の祖母の差別体験(英語)
日系アメリカ人画家、版画家、教授。(1939年生)
父の第二次世界大戦への出兵(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ
収容所からアップランドへの引っ越し(英語)
フィリピン・ダバオの幼稚園(英語)
フィリピン生まれの引揚者、後にアメリカに移民(1938年生)