ディスカバー・ニッケイ

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ターミナル島 / サンペドロ(英語)

(英語)ターミナル島に住んでいた多くの日本人の生活は過酷なものでした。初め、日本人はみんなそこに住んでいて、日本人しか住んでいなかったんですね。彼らは漁業で生計を立てていて、たぶん女性たちは缶詰工場で働いていたんでしょうね。男たちは漁に出て行っていたんですね。私たち家族が住んでいたサンペドロの方は少し違っていて、私の伯父(叔父)なども魚市場で働いていたんですよ。私たちは白人と同じ地域に住んでいて、サンペドロの白人の暮らしぶりとほとんど同じでしたから生活するのはずいぶん楽でしたね。それにもちろん白人も漁業に従事していて、大半がスロベニア系かイタリア系の人たちで、日系人と同じようにみんな漁業で暮らしを立てていたんです。


アメリカ サンペドロ カリフォルニア ウォータースポーツ ターミナル・アイランド 缶詰工場 釣り 食品加工工場

日付: 2003年6月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。

戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。

コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)

カズオ・フナイ

米国での最初の仕事

一世実業家(1900-2005)

マーガレット・オダ

おてんば娘(英語)

(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世

ヘンリー・シミズ

カナダで日本式漁船を建造 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

日本人の漁師町、カナダのスティーブストン (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

セドリック・シモ

こみ上げる怒り(英語)

第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)

グレース・アイコ・ナカムラ

ラリーの釣りの腕前(英語)

カーデザイナー、ラリー・シノダの姉