ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1774/

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

彼女は私たち全員の中で一番率直に意見を言う人でした。いい意味で率直に言うのですが、決して大声で言うわけではありません。

そして、私の両親が年老いてきていたので、ある意味、彼女は本当に一家の長のような存在で、いつも責任感を持っていました。

特にキャンプの後は、彼女は私にとって第二の母のようでした。本当に世話をしてくれました。スミと一緒に、彼女たちは私をお風呂に入れてくれました。母は仕事でとても疲れていたので、彼女たちが世話をしてくれました。本当に良かったです。スミと一緒に、彼女たちは私をお風呂に入れてくれました。母は仕事でとても疲れていたので、彼女たちが世話をしてくれました。本当に良かったです。そういうことを全部覚えています。私の性格の良いところは、彼女たちと母から受け継いだものだと確信しています。実際、そうなのです。

クリスタル シティやニューオーリンズへの船旅でも、姉が私にミルクをくれと何度も頼んだという記録があります。私は生後 20 か月でしたが、基本的に彼らは姉を無視していました。ですから、この旅行中、その 3 週間の間、基本的に栄養面では何もしていませんでした。彼らは私たちに十分な食事を与えてくれませんでしたが、私にとって姉はそういう意味では活発でした。


家族 日系ペルー人 姉妹 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

レイコ・T・サカタ

親の結婚

(1939年生まれ) 戦時中に家族とともに自発的にユタ州ソルトレイクシティに移住した実業家。