ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1522/

アニメーションとの最初の出会い(英語)

(英語)一般的にサンフランシスコの日系二世の家庭は、日曜日になるとおしゃれをして外出していました。行き先がたった3、4ブロック先だったとしても、当たり前のようにドレスアップしていました。私たちはポスト通りの、ひいきのチャプスイ・レストランに行き、“チャイナ・メシ”を食べました。それは、中華風、広東風、日本風の食べ物でした。アメリカン・ジャパニーズ・スタイルのチャプスイです。その後、徒歩圏内の近所の映画館に行きました。

その時のことを覚えています。映画館の座席に座り、目の前には素晴らしく大きなスクリーンがあり、七人の小人がまるで生きているように、「Hi ho, hi ho, it’s off to work we go.(ハイ・ホ―ハイ・ホ―仕事に出かけよう)」と歌いながらスクリーンの端から端まで行進していきました。その時私は思いました。「これになりたい!」。七人の小人の一人ではなく、アニメーション製作者になりたい、ああいうものを描く人になりたいと思いました。5歳の私の胸を打ったのです。それで決まりでした。何になりたいか決まったのです。そしてその夢を追いました。徹底的に追いかけました。漫画や、当時人気があったビッグ・リトル・ブックスを集めました。

父はガジェット好きで、家には8mmのカメラと映写機がありました。父は私たちを撮影し、土曜の夜にはスクリーンと映写機を立て、父が撮った一番最近の映像を流し、最後に古い白黒のミッキーマウスのアニメーションを上映しました。白黒のサイレントでした。アニメーションを見て育った私には、映画館で見た『白雪姫』は強く印象に残りました。


コミュニティ 職業

日付: 2015年8月26日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1934年7月17日、二世の両親のもとサンフランシスコに生まれる。5歳の時に見た『白雪姫』に衝撃を受け、その後生涯を通してアニメーションに夢中になる。第二次世界大戦中、家族と共にユタ州トパーズで強制収容される。その後カリフォルニアに戻り、アニメーターになることを目指してウォルト・ディズニーが好んだロサンゼルスのシュイナード芸術学校(現カリフォルニア芸術大学)に入学。伝説的アニメーター、イワオ・タカモトの指導の下、ウィリーの情熱は開花し、ディズニー、ワーナーブラザース、ハンナ・バーベラ・プロダクションで黄金期を過ごし、アニメーションの世界で長いキャリアを積む。クレジットされている仕事は、『わんわん物語』、『What's Opera Doc?』、『原始家族フリントスト-ン』、『クマゴロー』に及ぶ。

ウィリーは今でも絵を描き続け、日系アメリカ人の第二次世界大戦中の経験を描いた絵本のイラストも手掛けている。サンディエゴで開催されるコミコン・インタナーナショナルでは絵にサインをしたり、ファンと言葉を交わしたりするウィリーを見つけることができる。(2016年9月)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

ミシェル・ヤマシロ

沖縄系アメリカ人(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

トム・ユキ

餅つきの伝統(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

文化人類学から法学への転向(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ファン・アルベルト・松本

在日日系コミュニティの変化

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

日系コミュニティ最大のイベント、敬老会(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士