ディスカバー・ニッケイ

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ハワイで感じた自由と寛容性(英語)

本土に住んでいた時、特に1945年くらいまでは、自分は良い生活をしていると思っていました。でも、私はホノルルに行って初めて自由を実感しました。どいうことかと言うと、本土で暮らしていると、いつ誰に攻撃され、侮辱や容赦ない言葉を投げかけられ、非難され、ジャップと呼ばれ、「来るな」とか「ここで一体何してる?」などと言われるか分からないからです。

ハワイでは完全に受け入れられていると感じました。私は、「ここには素晴らしい文化がある」と思いました。私は、ハワイには友好的な姿勢と、皆を受け入れる、いわゆるアロハの精神があると感じました。気持ちの良い、開かれた世界です。ハワイの人たちは、かつて「聖牛(聖域として批判・攻撃がタブー視される事柄)」と呼ばれていたことを話題にすることも恐れません。許容範囲が広いのです。偏見があっても、それを隠しません。正直なんです。その正直さが大好きです。素晴らしい文化だと思いますし、楽しいのです。私は、この文化の中で成長できると思いました。そして好きになりました。


コミュニティ ハワイ アメリカ合衆国

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)

ジョージ・タケイ

父の影響(英語)

俳優、活動家(1937年生)

パウロ・イサム・ヒラノ

大泉とブラジルの日系コミュニティとの違い

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

ミシェル・ヤマシロ

沖縄系アメリカ人(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

トム・ユキ

餅つきの伝統(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ファン・アルベルト・松本

在日日系コミュニティの変化

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

日系コミュニティ最大のイベント、敬老会(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

笠原 ハルオ

日本が恋しくて泣いた日々

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

笠原 ハルオ

真珠湾攻撃後のプランテーションの対応

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

ミア・ヤマモト

アジア太平洋諸島法学生協会の共同設立

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

高校における黒人差別の理解

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ミア・ヤマモト

社会正義のために立ち上がる

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士