ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1485/

全米日系人博物館との関わり

YMCAを退職してから数年後のことでした。1986年にナンシー・アラキから電話がありました。彼女は、1986年当時の全米日系人博物館のプロジェクト・ディレクターでした。ナンシーがいつから働いていたかは分かりません。1985年でしょうか?とにかく電話が来て、「フレッド、お昼をご一緒しましょう」と言われました。ナンシーのことは、サンフランシスコに住んでいた時から知っていました。彼女の家族のことも、兄弟のことも知っていました。私が責任者をしていたパーク・プレシディオ地域のYMCAの拠点から1ブロック離れたリッチモンド地域に、当時まだ10代だったナンシーは住んでいました。それで、その電話を受けて、「いいよ、ランチに行こう」と言いました。でも、もちろんタダのランチではないことは分かっていました。そこから私の全米日系人博物館での資金集めのボランティア活動が始まりました。


ブリティッシュコロンビア州 バーナビー カナダ 日本文化センター博物館 ボランティア 活動

日付: 2005年3月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: フローレンス・オチ、アート・ハンセン、西村陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

フレッド・ヤイチオ・ホシヤマさんは6人兄弟の長男として、カリフォルニア州リビングストンのヤマトコロニーへ入植した日系一世の両親の元に生まれました。父親は、ホシヤマさんがまだ8歳の時に亡くなり、一家はその後も苦労しながら農業を続けましたが、結局農地を手放し、1929年にサンフランシスコに移り住みました。ホシヤマさんは、1941年にカリフォルニア大学バークレー校で文学士を取得しましたが、その後サンフランシスコのタンフォラン集合センターに送られ、1942年にはユタ州のトパーズ“戦争移住センター”に数千人の日系人と共に収容されました。ハワイ州真珠湾の米国海軍基地を攻撃した敵国人と同じ人種だというだけで、このような被害を受けました。

ホシヤマさんは、収容所にいながらも自身のライフワークとなるキリスト教青年会(YMCA)の活動を続け、収容所で強く求められていたレクリエーションや教育、親睦のためのプログラムの立ち上げに貢献しました。トパーズからの早期解放が認められ、マサチューセッツ州のスプリングフィールド大学で修士号を取得した後、ホノルルでYMCA若者プログラムのディレクターを務めました。その後、カリフォルニアで都市部の若者のためのプログラムに長年携わりました。また、1976年から83年には全米学生YMCA同盟(National Association of Student YMCAs)の立ち上げを支援しました。引退後は、経理の専門知識を生かし、複数の非営利団体の発展と維持に力を注ぎました。(2016年2月)