https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1455/
日系カナダ人フォトジャーナリスト、活動家 (1941 - 2018年)
(英語) 本当に皮肉なことです。僕には皮肉に思えるのです。僕は60年代の産物であるわけですね。他のことはともかくとして、全ての物事に疑問を投げかけ、全てを再検討しようという時代でした。それまでに信じられていた政治的、社会的、性的な真理が本当に正しいのか見直そうとしていました。
おかしなことに、僕はこのような重要なことを自分自身の歴史と照らし合わせて考えたことはありませんでした。例えば、僕が敵性外国人として育ったことにどのような意味があったのか?我々の強制収容にはどのような意味があったか?どこに収容されていたのか?僕はそのことを学んできただろうか?僕はそのことを分析しただろうか?僕はそのことを世の中に知らせただろうか?僕は何もしていませんでした。僕は自分の日本的な部分からかなり距離を置いていたのです。自分自身のコミュニティを拒絶していました。同時に妙な葛藤もありました。なぜなら日本的なことを拒絶する一方、それは僕自身の子供時代やコミュニティ、家族、家の出発地点だったからです。
戦後、僕らは少しずつ社会基盤を立て直し始めました。コミュニティで行う素晴らしいピクニックがありました。ボーイスカウトではキャンプ場を借りてキャンプに出かけました。エリー湖の湖畔での僕らだけのキャンプが大好きでした。そういった行事が僕は大好きで、キャンプでは一日中釣りに出かけ、素晴らしく美味しいお弁当を食べました。しかしある年、その場所を借りることができなかったので、ロンドの公園に行くことになりました。そこには僕らだけでなく白人も大勢ピクニックに来ていました。僕はそこにいる間中、おにぎりや照り焼きといったものをお箸で食べることに自意識過剰になっていました。ピクニックの居心地の良さは、そこにはもうありませんでした。
日付: 2011年2月9日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。
1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。
2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)
*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。
日系人であること:二重の責任感 (スペイン語)
ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)
日本の技術への驚き(スペイン語)
社会統合を促進するさまざまな参加方法(スペイン語)
在日日系ペルー人
「晴れ舞台」
演歌歌手(1981年生)
若さの秘訣
羅府新報創設者の娘(1908年生)
ビーチとアメリカ(英語)
一世医師の娘
母と祖母の影響で日本へ興味を抱く (英語)
伝統を大切にするということ (英語)
演歌歌手になることを夢見て(英語)
ファッションとアイデンティティ(英語)
人種や伝統を超えて、人は夢を追うべき(英語)
故郷のピッツバーグで、日本での生活を夢見ていた(英語)
自分らしく歌うためのスタイル
アメリカでの初コンサート
日米文化会館との関わり(英語)
アジア系アメリカ人女性最初の判事(1942年生)