ディスカバー・ニッケイ

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戦後の国外追放の企て (英語)

(英語)政府は戦争が終わった後も、卑劣な計画を用意していました。日系人全員を日本に国外追放しようとしていたのです。非常に姑息な政府のやり方でした。家族が一緒に居るためには日本に行くしかないと吹聴したのです。しかしそれはごまかしでした。政府はこの計画を本当に実現させようとしていましたが、人々の自由を擁護するたくさんの教会や市民団体の協力のお陰で阻止されました。クエーカー教徒や我々自身の抵抗の賜物です。その頃までに人々は日系人に何が起きていたかを知り、がく然としていました。政府は、日系人を日本に送る一連の計画を本国への帰還と呼びましたが、僕には全く意味がわかりません。僕が愛する国はカナダであって、日本は外国でしかないのです。政府は僕を日本に送り、一体何を成し遂げようとしていたのでしょう?

正確に言うと、それは国外追放以外の何ものでもありませんでした。二者択一を迫られた僕らはチャタムへの移住を選びました。僕はそこで僕は育ちました。人々が生涯をかけて築き上げてきた財産が一晩で奪われ、コミュニティ全体が強制退去させられ、収容所に押し込まれるという、この異常な時代の全貌に人々は衝撃を受けています。そしてさらに戦争直後、収容所から解放された人々は散り散りになり、少人数での孤立した生活を強いられました。この広大なカナダの国土で、離散状態となったのです。


再定住 キリスト友会 国外追放(deportation) 戦後 クエーカー教 第二次世界大戦 送還

日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出ることへの懸念(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ペギー・ニシムラ・ベイン

収容所を出た後、シカゴでアパートを見つけることの難しさ(英語)

ワシントン州出身の二世。ツーレレイク強制収容所へ収容後、シカゴへ再転住。(1909年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

戦後カリフォルニアでの住居不足(英語)

作家(1934年生)

ヒカル・カール・イワサキ

サンノゼへの帰還(英語)

戦時転住局(WRA)カメラマン(1923 - 2016)

フレッド・Y・ホシヤマ

大学に通うために収容所を出る(英語)

二世、YMCAと日系アメリカ人コミュニティ・リーダー(1914-2015)

トム・ユキ

先見と明と幸運でロス・ガトスに転居(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

ミツエ・ヤマダ

収容所の日系人を支え、就職の手助けをしてくれたクエーカー教徒への感謝(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)