ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1454/

公民権運動の撮影(英語)

(英語) 今振り返ると、僕が撮影した公民権運動の写真の中で一番良かったのは人々の写真だったように思います。僕はデルタがすごく好きでした。本当に好きでした。とても美しかった。生まれた時から知っているような気持ちになる土地でした。視覚的にも完璧でした。その土の上に建つ小作人の小屋は、人が作ってそこに置いたというよりも、その自然環境の一部であるかのようでした。人々もそうです。その土から生まれてきたかのようでした。僕は彼らの命と勇気、英知をたたえたいと思いました。なぜなら彼らは英雄だったからです。ミシシッピの人たちは僕らに食べ物や住む場所を与え、僕らを守ってくれました。そして彼らは投票に出かけました。しかし、そういった全ての行動一つひとつが、彼らの仕事や生活、土地、家族、そして命をも犠牲にする可能性がありました。彼らにどれ程の勇気が必要だったかわかりますか?僕らはある意味、外部から世論を喚起する立場にありました。運動から逃げるつもりはありませんが、本質は外部の人間なのです。僕らはいつでも元の生活に戻ることができました。そして実際に、最終的には戻って行きました。しかし、彼らはミシシッピの人間です。これは彼らの現実で、その地に留まり自分たちの権利を獲得していかなければなりません。大変な暴力と戦っていかなければなりません。それがミシシッピなのです

デルタでの日々は素晴らしかった。デルタで撮った写真はとても気に入っています。SNCC周辺の小さなコミュニティやジョージア州南西部の景色もそうです。スーパーマンごっこをする小さな子供たちは本当に可愛かった。小作人の女性のはじけるような笑顔は素敵でした。彼女は本当に魅力的でした。鍋を持った男性の写真もすごく気に入っています。向こうの方を見ているんです。それから別の写真の男性は、こうやって覗き込む姿勢で、「自由って何だい?今こそ自由を?一体何だいそれは?」と言っています。デルタで豚の屠殺も撮影しました。本当に美しい写真でした。僕の写真には運動以上のものが写っています。もちろん僕は運動を撮り、この劇的な時代の登場人物を撮りましたが、僕の仕事の根本には、人々の姿があります。


日付: 2011年2月9日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: パトリシア・ワキダ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

タミオ・ワカヤマ氏は、カナダのブリティッシュコロンビア州ニューウエストミンスターで、日本による真珠湾攻撃の直前、1941年に生まれました。一家は22,000人の日系カナダ人と共にカナダ政府から敵性外国人の烙印を押され、財産を奪われ、強制収容所に送られました。ワカヤマ家は第二次世界大戦が終わるまで、ブリティッシュコロンビア州の外れにあるタシュメ収容所に収容されました。終戦を目前にして、彼らは日本への強制退去かロッキー山脈以東への移住か、二者択一を迫られました。ワカヤマ家はカナダに留まることを選び、チャタムの貧民区に居を構えました。チャタムでのタミオの近所の友達は黒人の子供たちで、彼らは地下鉄道* を通り奴隷制から逃れてきた人々の子孫でした。

1963年、タミオは大学を退学し、アメリカ南部に渡り、ミシシッピ州でのアメリカ公民権運動に参加しました。その後彼は、学生非暴力調整委員会(SNCC)のスタッフとして2年間活動し、自身の体験を撮影するようになります。タミオの写真はスミソニアン博物館などの有名な施設でも展示され、国際的にも知られるようになり、テレビやドキュメンタリー映画、雑誌、書籍、本の表紙やカタログなどでも多数使われています。タミオはこれまでに本を2冊執筆し、現在回顧展と回想記の準備を進めています。

2018年3月、76歳で亡くなりました。(2018年6月)

*注:19世紀アメリカで、奴隷制が認められていた南部諸州から奴隷制の廃止されていた北部諸州またはカナダへの黒人奴隷の亡命を支援した奴隷制廃止論者や北部諸州の市民による組織、およびその逃亡路のこと。

ジーン・アリヨシ

写真花嫁に送る写真を修正する父 (英語)

ハワイ州知事の元ファーストレディー

アーチ・ミヤタケ

父に教えられた収容所の写真の重要性(英語)

写真家・ビジネスマン。

キップ・フルベック

ハパ・プロジェクト(英語)

映画製作者・アーティスト(1965年生)

キップ・フルベック

ハパ・プロジェクトで学んだこと (英語)

映画製作者・アーティスト(1965年生)