ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1326/

立ち上がり、挑戦すること(英語)

(英語)私が何をしたかというと、インヨー郡の郡会議員に手紙を書き、史跡認定について一度会って話をしようと伝えたんです。するとインヨー郡新聞の記者から電話があり、ある郡会議員は私の手紙を床に投げつけ、「俺の目が黒いうちは、絶対にそうはさせない!」と言ったそうです。 それで私は、郡会議員全員が集合しているところへ出向きました。町には確か2つしかレストランがなかったはずです。私は中に入り、「誰がキース?」と聞きました。私は、記者からキース・ブライトが怒っていると聞いていました。私は、「こっちへ来て」とキースへ言い、外に連れ出しました。そして、「あなたが望んでいないことを教えて」と聞くと、「恥をかかされるのはご免だ」と言われました。 私がここで付け加えたいのは、州の史跡認定に向けて動き出した結果、人種間の衝突など、たくさんの争いが起こったということです。この取り組みは、議会決定や法律の制定といった、州としての取り決めが必要なものではありませんでした。任務の委託であって、政府からの友好的アプローチを受けて動き出したのです。しかしながら、そのやり方は、多くの亀裂や日系人に対する敵意を招くこととなりました。そんな背景があったことも言及しておきたいと思います。 私は、キースや皆に集合してもらい、こう聞きました。「あなた方が何を望んでいないのかを教えて。」すると彼は、「人種間の闘争を持ち込みたくないし、我々が皆の中にある敵意を受け止めることもできない」と言いました。「では、皆さんに必要なものは何?」とたずね、私はこう続けました。「経済発展、観光客がここには必要なんじゃないですか。この町で、ガスを買い、モーテルに泊まり、食事をしていってくれる人が必要ですよね。この史跡は、このような人々を連れてくるんです。ここには他に何がありますか?採鉱?釣りもできるかしら?」キースは素晴らしい人でした。「よし、じゃあ取りかかるか」彼はそう言ってくれたのです。 キースには助けられました。私には市長や民主党支持者とのつながりがありましたが、キースは、インヨー群の「ミスター共和党員」でした。


カリフォルニア州 強制収容所 政府 インヨー郡 マンザナー強制収容所 政治 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2013年7月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ショーン・ハマモト

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター; Japanese American Bar Association

語り手のプロフィール

ローズ・マツイ・オチ氏は、1938年12月15日カリフォルニア州ロサンゼルス東部に生まれました。第二次世界大戦の勃発により、当時まだ幼かったオチ氏は、一家と共にサンタアニタ競馬場跡地に強制収容されました。その後、一家は、当時の日系アメリカ人強制収容所の一つであったローワーに鉄道で移送されました。強制収容所から釈放されたオチ氏の両親は、国外退去を命じられましたが、市民権専門の弁護士がこれを覆し、両親を助けました。オチ氏は、一家の辛い体験を通して不当な扱いを知り、不正を正すことを学びました。

オチ氏は、人権や社会正義のために戦うことを目指し、法律の道に進むことを決意しました。カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学士号を取得した後、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校で理学修士号を取得し、ロヨラ法化大学院で法学士を取得しました。彼女は、貧困層のための弁護士、「レジー」としてU.S.C. Western Center on Law and Povertyでキャリアをスタートさせ、共同登録弁護士としてセラーノ対プリースト裁判に携わりました。この裁判は、教育の機会平等のための法改正に挑んだ画期的裁判でした。以後オチ氏は、カリフォルニア州認定弁護士、司法委員、懲戒審査官を務め、ロサンゼルス郡弁護士会のための初代AA運営委員会メンバーにもなりました。

また、近年ではツナキャニオン日系人抑留所の保存に貢献し、同抑留所は議会からの歴史遺産認定を受けました。オチ氏は2020年12月亡くなりました。 (2020年12月)

ジェームス・ヒラバヤシ

S.I.・ハヤカワとの関係 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

中東での過去と現在の関係 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案の支持者を求めて(英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

フランク・ヤマサキ

賠償金について(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

ジム・ライトの支持を得ること (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

収容所経験のない一世に対する補償運動(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

戦中の日系人弁護士からのサポートの欠如(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

デール・ミナミ

コレマツ裁判が現代社会に与えた影響 (英語)

弁護士 (1946年生)

ロベルト・ヒロセ

戦時中の日系人への政治的な影響(スペイン語)

二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)

クリフォード・ウエダ

コミュニティを超えた思いがけない支援(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

賠償から補償への変更(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

アメリカ社会を教育するためのイノウエ上院議員の戦略(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

補償が残した遺産(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

阪根 博

フジモリ元大統領の選出をサポートしなかった日系コミュニティ

天野博物館事務局長(1948年生)

阪根 博

フジモリ元大統領にみる戦前と現代のペルー社会の違い

天野博物館事務局長(1948年生)