ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1251/

英語を覚える (英語)

(英語) 私たち兄弟はみんな日本語しか話せなかった。そう、英語は少しもわからなかったの。父は少し英語を話したけれど、私たちに対してはいつも日本語だった。小学一年生の頃、英語は難しいものだった。昔、日本人は「椅子(チェア)」のことを「チア、チア」と言っていて、ちゃんとした発音ができてなかった。他にも色々あったけれど、今はほとんど忘れてしまったわ。でも私の一年生の時の先生は素晴らしかった。先生は同じブロックに住んでいたから、よく一緒に家まで歩いたの。帰宅中、一緒に歩きながら、先生は草を指差して、「Grass」と言った。私が「草」と言っていたものを。「Weeds」、「Grass」という風に。歩道に生えているやつね。そうして先生は英語を教えてくれた。ええ、素晴らしい先生だった。


教育 英語 言語

日付: 2011年5月24日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

スミコ・コザワ氏は、1916年ロサンゼルス生まれ。五人兄弟の長女であり、第二次世界大戦前は日本で3年間、琴や生け花、茶道を学ぶ。家族が経営する、シルバーレイクの「トーキョー・フローリスト」は、新鮮な花々を適当な値段で買えるためハリウッドの地域で人気だった。スミコ氏はお店を手伝う中で、有名な無声映画スター、グレタ・ガルボを含む多くの人々に出会う機会を得る。日本が真珠湾を爆撃すると、スミコ氏と家族はマンザナへと送られる。スミコ氏はそこで家族、祖父、妹の世話をした。コザワ氏は、2016年12月、100歳で亡くなりました。(2016年12月)

サカエ・シゲカワ

良い助言を受けて (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

パウロ・イサム・ヒラノ

日本に移住して苦労したこと

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

二木秀人

ポルトガル語の試験

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの日本語教育

一世教育者(1911年生)

関利彦

金の卵を育てる

寿司職人(1962年生)

田岡 功

移住地教育とパラグアイへの思い

パラグアイ駐日大使(1943年生)

堀切 エドワード・徹

最も運に恵まれた一世(英語)

帰米二世(1929年生)

ススム・“スス” ・イトウ

復員兵援護法を利用して博士号を取得(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

トム・ユキ

朝鮮戦争での戦闘参加を避けるため、ヨーロッパでの任務を希望(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

家族の日系ルーツと価値観 (英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツル・”ミッツ”・カタオカ

ロードアイランドで直面した住宅差別(英語)

日系アメリカ人デザイナー、教育者、メディアテクノロジー先駆者(1934-2018年)

ハワード・カキタ

アメリカ生活への適応(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

二宮 正人

家の中で日本語を話すことを強要した父

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

ジョージ・アリヨシ

舌足らずの話し方を直してくれた先生 (英語)

民主党政治家。3期ハワイの知事を務めた。(1926年生)

ジェームス・ヒラバヤシ

民族研究の内情 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者