ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1155/

移住地教育とパラグアイへの思い

日系人として、特に、まぁ移住者の人たちが、戦後やはり厳しい時代を乗り越えるために、外国への移住を考えられた。そこで、移住者っていうやはり立場っていうのは、やはり日本人であるっていう日の丸、日本人だっていう日の丸を背負ってるっているこう、その移住者の先輩の方々の思いをやはり移住地の中で教育としてどう考えていくか。これはやはり現地で生まれる人はみなパラグアイ人になる。しかし、日本国籍も保留ができる。そうした二重国籍の保留の上で、やはり日本語で日本文化を、いい所はやっぱり残すべきだろうと。たぶん南米でもパラグアイが一番日本語を大事にされてると思いますね。

ま、忙しい時には、あんまりそれほどないんですけれど、やはり仕事がちょっと落ち着いたりすると、やっぱりこうパラグアイの生活、やっぱり47年、やっぱりもうしみについてますので、家族だとか、孫が8人もおったりしますし、やはり、帰りたいなっていう気持ちもあったり、目が覚めたら夢でないかなと思うような時もありましたけど。そういう、まぁ気持ちっていうのは、やっぱり自分にとって、やっぱりパラグアイっていうのが、まぁ、第二のふるさとであっても、生活の上ではやはりパラグアイっていうふうに一番思いますね。はい。


教育 アイデンティティ 移住 (migration) パラグアイ

日付: 2009年3月24日

場所: 日本、東京都

インタビュアー: アルベルト・松本

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1943年徳山県三好郡生まれ。14歳のときに、パラグアイのラパス移住地へ入植。農業へ従事する傍ら、ラパス農業協同組合組合長、パラグアイ日系農業協同組合中央会会長、パラグアイ国農業協同組合連盟監事および理事などを歴任。87年にはパラグアイ国家功労賞勲三等を叙勲。1992―96年、2002-03年にかけて、ラパス市の市長を務める。2004年、日本生まれの海外移住者で初めて駐日大使として就任し、2009年10月まで務める。(2009年12月)

ボブ・キヨシ・オカサキ

渡日に対する決断に祖母の影響(英語)

日本在住30年以上の日系アメリカ人陶芸家。(1942年生)

マサカツ・ハイメ・アシミネ・オオシロ

幸福のために可能な選択も... (スペイン語)

ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)

ヘンリー・シミズ

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

カズオ・フナイ

米国での最初の仕事

一世実業家(1900-2005)

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日系人とは?

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日系人から学んだこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

ジェームス・ヒラバヤシ

ニックネーム (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

親子の触れ合い (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

コミュニティにおける日系アメリカ人研究センター (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ジェームス・ヒラバヤシ

民族研究とのかかわり (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

前後関係・時代背景の織り成す意味 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

ジェームス・ヒラバヤシ

日系人を研究している日本人研究者の推論 (英語)

(1926 - 2012) 文化人類学者。学問として民族研究学科を設立した第1人者

スティーブ・カジ

FOB - 新参者 (英語)

ハワイ生まれの在日日系人。YMCAの英語教師。