ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1065/

日本に移住するまで日本語を話さなかった (英語)

(英語) マイノットいた時は日本語を一言も話しませんでした。日本語で話した記憶はありません。いつも英語で会話をしていました。ですから(日本語を初めて話したのは)横浜に着いてからです。話したと言っても、なんと言いますか、兄弟の方を向いて「オーマイ!」とか何とか言ったのを覚えています。「オーマイ!」とか何とかでたらめをね(笑)。そして、私のおじが船の甲板に来て、確か「ストウさんですか?」と日本語で聞いてきた時に、私は「はい」と答えた事を覚えています。日本人と日本語で言葉を交わしたのは、それが初めてでした。


言語 移住 (migration)

日付: 2008年6月17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジャニス・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ヘンリー・榮一・須藤氏は、1928年2月5日一世の両親のもと、ノースダコタ州ミノットに生まれました。父親と妹が亡くなった後、母はヘンリーと弟を連れて日本へ帰国しました。当時7歳のヘンリーは、ほとんど日本語がわからなかったため、クラスメイトに溶け込もうと必死に日本語の勉強をしました。17歳の時、教員より日本軍への志願を勧められ、また、経済的理由からも大学進学は難しいという判断から、軍に志願することにしました。基礎的なトレーニングを終えて、須藤氏は、スペシャルユニットとして、34人の学生の1人に選ばれましたが、人間魚雷による自爆攻撃ユニットであることは知らされていませんでした。広島に原爆が投下された時、須藤氏はこのユニットにいたため、原爆投下の36時間後には救護兵として広島に到着していました。彼は、広島へ救護に向かった最初の兵士の1人でした。

戦後、須藤氏は合衆国へ戻りました。母親が亡くなってからは叔父と暮らし、ベルモント高校へ入学しましたが、その3カ月後、朝鮮戦争に招集されました。通訳になるためにパーマー基地で韓国語を学び、朝鮮半島の第一線で尋問員となる予定でしたが、日本を通過した際に、日本で通訳となるよう要請を受けました。

陸軍から退役した須藤氏は、ロサンゼルス・シティ・カレッジで貿易を専攻し、オタギリ社に入社し、1993年の退職まで働きました。

須藤氏は、2008年10月17日、80歳で他界しました。(2009年1月30日)

ミシェル・ヤマシロ

日本人がペルーへ移住した理由 (英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

写真花嫁の集団と一緒にアメリカに渡った母(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ミツエ・ヤマダ

日本から到着した母のためにアメリカの洋服を買った父(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ホリー・J・フジエ

日本語を教えるよう圧力を受けた祖父(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事