Shigeo Nakamura

立教大学アジア地域研究所研究員。2005年から2年間、JICA派遣の青年ボランティアとしてブラジルサンパウロ州奥地の町の史料館で学芸員をつとめ る。それが日系社会との出会いで、以来、ブラジル日本人移民百年の歴史と日系社会の将来に興味津々。

(2007年2月1日 更新)

 

migration ja

ブラジル国、ニッポン村だより

移住地に来た理由

移住地に暮らした人びとが、そもそも日本を出ることになった理由はさまざまだ。

ブラジルに来ることを決めたいきさつを話してくれるKYさんの脳裏には、ある映像が鮮明に蘇るようだ。

KYさんの故郷は山の中にあった。村人の暮らしは山とともにあるといってよいようなところだった。KYさん一家の生業も山仕事だったから、仕事をする年齢になったら山に入るものだと思いながら成長した。そのことに抵抗があるわけでもなく、疑問を感じたこともなかった。

ここでこのまま大人になるのはなんとも気がすすまないと感じるようになったのは、十代半ばを過ぎた頃だったという。きっかけは、学校帰りにしばしば遭遇するようになったある光景だった。

通学路に山の入り口があった。山仕事の男たちはそこから山に入り、何日も木を伐り、伐った木を運び出したりして働くのだ。男たちのそんな姿が、KYさんにはおなじみのものだった。

ところがある時期から少し様子が変わってきた。

学校の行きかえり、KY少年は、山の入り口のところでたむろする大勢の屈強な男たちを見かけるようになる。男たちは山に入ろうとせず、明るいうちか ら酒を飲み、博打に興じていた。その様子はなんとも不健全で、あたりに近寄りたくない雰囲気を醸し出していた。仕事もせずに遊び暮らす大人たちの姿に、少 年はひどく失望を感じた。

「もうあと何年かすればあの中に入らなければならないかと思うと、嫌で嫌でしょうがなくなった」映像ばかりかその場の嫌な感じをまるごと思い出した かのような表情で、あの仲間に入らずに済んだだけでもブラジル移民という自分の選択は間違っていなかったと言わないばかりだ。よほど強烈な印象を受けたで あろうことが伝わってきた。

今から考えれば、KYさんは、日本近現代史上に残る大不景気初期の一場面に遭遇したということになるだろう。たむろしていた男たちは、すすんで怠惰 で享楽的な暮らしをしていたわけではなく、働こうにも仕事がなかったのに違いない。日本の農村の疲弊は実際にはそこからさらに進み、昭和初期のブラジル移 民最盛期の背景ともなったのだ。

KYさんには東京に出た兄弟もあったから、故郷を脱出する方法はほかにも考えられたはずだ。東京を飛び越してブラジルにまで行くことになるについては、叔 父の存在があった。叔父一家がいずれブラジルに行くらしいという噂を耳にしたKYさんが家族に内緒で訪ね、行く時には必ず自分も連れて行ってくれと頼み込 んだのだ。紆余曲折あったが、KYさんはとうとう意志を貫いた。そして日本人移住地に入植する一団に加わった。

KYさんの叔父さんは、実直を旨とする役場勤めの人で、別に日本を出て海外に雄飛しようという野心などないタイプだった。ブラジルとの縁は、役場での仕事に関連してできたものだ。

当時日本の政府は、アメリカに代わる移民の送り出し先としてブラジルに力を入れる方針を打ち出したところだった。法律をつくり、日本のお金でブラジルに土地を買い、学校や病院まで整備できるようにした。そうして日本人移住地ができることになった。

移住地に住むには、自分が住む都道府県にある組合に加入しなければならない。日本の国策でできたその組合は、役場のなかに設置されているのが普通だった。叔父さんの役場にもある時突如として「ブラジル」がやってきて、移住希望者を集める仕事を任されることになった。

組合員になって家族でブラジルに行けばあなたは大地主だ。移住地には日本人だけが住んでいるので日本にいるのと同じ暮らしができる。KYさんと同時期に移住地にはいった人の記憶では、そこには映画館や女学校さえあることになっていたという。

たぶん叔父さんは、言われた通りにそんな話をしながら勧誘をしていたのだろう。悪くない条件のはずだった。予定の人数はすぐに集まると思われた。し かし予想に反してブラジルに行こうという家族はそれほど現れなかった。話がうますぎると思われたのか(実際映画館も女学校もなかった)、いくらなんでも やっぱりブラジルはあまりに遠いということか、理由はよくわからない。

それでもなんとか集まった数家族とともに、おじさんは一家を引き連れてブラジルに行く決心をした。その理由を叔父さんは、「あれだけ人にブラジル行 きをすすめておいて、自分が行かないわけにはいかない」とKYさんに語ったそうだ。おじさんは応募家族数が予定数に満たなかったことの責任を役場に対して とると同時に、いわば自分の勧誘にのってブラジル行きを決意した人びとに対しても責任をとるつもりだった。KYさんはそんなふうに理解したという。昔の日 本には自分の職務にそんなふうな責任を感じる人が確かにいた。

こんな風に、いろんな理由でブラジルにやってきた人たちが集まって移住地はできた。

たむろする男たちの姿に衝撃を受けてブラジルに来ることになったKYさんは、「来て良かった」ときっぱり答える。おそらく故郷では開花しなかったであろう スポーツマンの天性をいかんなく発揮して、野球、相撲、陸上に大活躍し、90歳を過ぎた今はゲートボール界の重鎮として知られる存在だ。

Read more

community ja

ブラジル国、ニッポン村だより

ブラジルのなかの日本人移住地のなかのブラジル人

いくら日本人移住地だとはいってもブラジル人が一切住んでいなかったわけではない。少ないときでも人口の1割程度はブラジル人が占めていた。とはいっても、それはやはり異常な数字には違いないが。

ブラジルでは、いつも北の方からサンパウロ方面に向けた労働者の移動があるようだ。それは時々、はっきりした理由があって大きな流れになるが、どうやらサンパウロに行けばいいことがあるらしい、という程度の漠然とした期待感が北の人たちにはわけもたれているらしい。

ATさんが子供のころ、一家はやはり北の町からサンパウロを目指して出発した。その途中、もうすぐサンパウロに到着するという段になって、一足先に 来ていた親戚から、自分がいま住んでいる町に来れば仕事があるとの情報がもたらされ、進路はそれに沿って微妙に変更されることになる。家族を乗せたカミヨ ン(軽トラック)はサンパウロをそれ、はるか奥地の、まだできて間もない町を目指すことになった。

途中から一行に加わった親戚の道案内で野原の道をずっと進んでいくと、ひとつ橋を渡ったあたりから、ようやくちらほら人と行き違うようになった。興味津々に人びとの顔を眺めていたATさんだったが、感心のあまりとうとうその親戚に声をかけた。

「おばちゃん、なんてまあ大きな家族だろう!!」

思い出しながらゲラゲラ笑うATさんの説明によると、橋を境に一行は日本人移住地に入っていたが、日本人を知らなかったAT少年の目には、出会う人、出会う人皆そっくりな顔に見えたものだから、これがみんな一族なのかと思ってびっくりしたのだという。

「あれが日本人だよ。これからみんなでここに住むんだ。」

おばさんはそう少年に告げた。その時はそこにこれほど長く暮らすことになるとは思わなかっただろうATさんは、結局この町で結婚し、子供を育て、今では孫もここにいる。ちょっとした大きな家族だ。

木を切り倒し、焼き払う、という作業は、日本で一般にやる農業にはないものだから、そこには経験豊かなブラジル人の働き手が必要になってくる。畑が できたらできたで、日本では考えられないような広大な農地を家族だけで世話することは難しい。一時は町のホテルが口入屋のようになって、入れ替わり立ち替 わりで常に幾人か逗留しているブラジル人を、日本人がひっきりなしに雇いにきたそうだ。

しかしATさん一家のように長く町に留まったひとは、案外少なかったようだ。ブラジル人たちのなかには、日本人のあまりの多さに気分が悪くなったと言って去っていく者もあったという。

長く暮らしているブラジル人に、昔の町の様子や日本人のことを聞くと、だいたい同じような返事が返ってくる。日本人の奥さんは本当に働き者で、旦那 さんはそうでもなかった、というのは前回野球の話でも紹介したが、皆が口をそろえて言うのは、「日本人はブラーボ(bravo)だったなあ」ということ だ。

Bravo。勇敢な、という意味もあるポルトガル語だが、ここではあんまりよい意味では使われていないような気がする。怒りっぽい、とかそんなニュ アンスだろう。尋ねてみる機会はまだないが、一般的な日本人が雇用主として一般的なブラジル人にかかわる場合、今でも似たような印象を与えているのではな いだろうか。日本人はだいたいにおいて相当仕事に厳しい。Bravoという評判にもなるだろう。

そんな日本人を、Bravoなだけの不愉快な連中だとしか思えなかったブラジル人たちは早々に町を去っていったことだろう。どこか日本人と気があっ たか、町を出ようにも出られなかったかで長く付き合う事になった人たちは、そのうち単なるBravoな連中でもないらしいということに気づいてくれたよう だ。

「日本人と働いていると、給料はごまかされないし、期日にきちんと支払ってくれた。働くなら日本人のところだね」

町にいついたブラジル人からは、そんな評価も聞く。

おとなになってからATさんは、一度大きな町に働きに出た。その時自分が感じた違和感を、これも笑いながら語ってくれた。

「買い物しても、町をぶらついても、日本人がいないとなんだか落ち着かないんだ」

ATさんは結局町に戻って家庭を持った。相手はブラジル人だ。

日本人はずっと日本人以外とは結婚しないものだった。日本人女性と恋愛したATさんの知り合いは駆け落ちしなければならなかった。しかしそれはもう 昔の話になった。ATさんの息子は日本人の女性と結婚し、孫はその血が明らかな顔立ちだ。カラオケ教室に通い、日本人離れしたパンチの効いた演歌を持ち歌 にあちこちの大会で好成績を収めている。

面白い話がある。現在、町の人口の8割はブラジル人だが、まわりの町のブラジル人たちには、ちょっと変わった人たちだと思われているという。たとえ ば、自分の意見を述べるのに、ブラジル人には曖昧に聞こえる「アショケ(私はこう思う)」という表現をやけに使う。仕事ぶりは生真面目だ。

あそこのブラジル人はだんだん日本人に似てきている、ということでみな納得しているのだそうだ。

Read more

sports ja

ブラジル国、ニッポン村だより

移住地野球の風景

ブラジルといえばサッカー(ブラジルではフチボーラという)だ、という印象を多くの日本人は持っているだろう。ブラジル人は一人の例外もなくサッ カーをやっていると信じられていて、路地裏でぼろぼろになったボールを追いかける子供たちのいる風景が自然と頭に浮かんでくる。もちろん実際のブラジルで は、サッカー以外のスポーツも盛んで、バレーボールやハンドボール人口もそうとうなものだ。

日系人はあまりサッカーをやらないグループのようだ。「サッカーとサンバはジャポネスにはやらせるな」などというひどい言い方まであるそうだが、そ ういえばサッカーボールをける日系人の姿はあまり見かけないように思う。ではいったい日系人に人気の高いスポーツは何なのか?最近でこそだいぶん多様化し ているようだが、今でもやっぱり野球というのは日系人と結びつきの強いスポーツのようだ。

移住地ができた昭和初期は、日本では大学野球が大人気だった。そんな日本から直接移住地にやってきた人たちにとって、野球は魅力的なスポーツだった ろう。問題は、そんな暇があったのか、グラウンドや用具はどうするのか、ということだ。前者についていえば、案外余裕はあったようだ。戦前日本人のところ で働いていたブラジル人の目には、忙しそうなのは女性ばかり、と映ったそうだから、男どもは力をもてあましていたのではないだろうか。グラウンドを整備 し、グラブやバット(といってもこれらはほぼ手作りのようなものだ)をそろえてくれたのは、移住地事務所だった。事務所は主に生活や農業の指導をするのが 仕事だったが、定住を念頭において開発された移住地では、スポーツや文化活動の支援も移住者定住化に向けた方策のひとつとして位置づけられていたのだ。

後には州全域から野球チームがサンパウロに集まって大きな大会が開かれるようになったが、それまでは、移住地内での地区対抗(一時は10チーム以上 あった)、同じ方式で開発された近隣移住地との対抗戦などが盛んに行われた。原野を切り開いたばかりの土地で数々の名勝負が生まれ、名選手が生まれた。

今なら車で2、3時間のところにある移住地に、伝説的な豪速球投手を擁する強豪チームがあった。当時は移動にたっぷり半日はかかったが、そこまで遠 征することもあった。郵便事情もよくない時代(そもそもそのあたりはまだあまり人が住んでいなかった)だから、いついつ練習試合をやるという約束もろくに せずに行ったというから乱暴だ。そんなことだから、その移住地には、ある時野良仕事をしているところに突然藪を割ってユニフォームの一団が現れ、試合を申 し込んできた、などという逸話が残っていたりする。「○○軍の急襲」として語り草になっているのだという。もちろん即座に受けて立ったそうだ。そんな遠方 から来た一団を無碍に返すこともできないだろうが、急襲などと大げさな言葉を使う妙な真剣さと呑気が同居していて楽しいエピソードだ。

逆に豪速球投手のチームがやってくることもあった。迎え撃つ移住地には、そのチームと戦う時だけに歌う応援歌なるものまで用意されていた。当時の日本でいえば、早慶戦並み(とはいっても私もそれを体験しているわけではないが)に盛り上がっていただろう様子が目に浮かぶ。

さて件の豪速球投手は、日本にいれば甲子園にでも行っただろうというほどの逸材で、移住地チームも長らく歯が立たなかった。

「何連敗したかなあ」当時はそうとう悔しい思いをしたに違いないが、今となっては懐かしさしか残っていないようだ。もう70年も前のことを当時野手だったKYさんが愉快げに、でも少し苦笑いしながら細部まで思い出してくれた。

待望の初勝利はこんな風に転がり込んできた。

その日は2試合あった。その第1試合で、豪速球投手が死球を受けた。死球にもいろいろあるが、その死球は顔面直撃のまさに死球だった。試合は続行 し、豪速球を打ち崩せずやっぱり負けを重ねたが、試合が終わるころには豪速球投手の顔は造作が変わるほど腫れあがっていた。そして2試合目。野球にかける 情熱が半端ではない豪速球投手、マウンドに上がったものの、さすがにいつもの投球は無理だったようだ。実は投手ひとりに頼る部分の大きかったかのチーム は、投手を失ったら意外にもろく、初対戦から何試合目かでとうとう勝ちを譲る事になった。

何かにつけて競い合う、あるいは助け合う関係にあった両移住地の野球チームは、その後も長く好敵手として戦い続けた。

戦前の日本人移住地がブラジル野球の発祥の地というわけではないけれども、その後ブラジル野球を育てることになる人材を多数輩出していることは間違いない。かれらの力で、ブラジル日系社会の野球は、日本のプロ野球や高校野球に選手を送り込むほどのレベルになっている。

その原風景に、原野を切り拓いてつくったグラウンドや、手づくりのグラブ、移住地名を胸に縫い付けたユニフォーム姿の選手たち、ライバルとの死闘(?)があったのだ。

Read more

education ja

ブラジル国、ニッポン村だより

日本人移住地の話(3)― ブラジル人教師と生徒たち

学校生活にまつわる話にはまだいろいろ面白いものがある。前回で終わりにするには惜しいのでもう少し続けよう。

日本の尋常小学校教育だけが行われていた時代が幕を閉じると、州政府からようやく正式に教師たちが派遣され、ブラジルの教育がはじまった。その後ブ ラジルのナショナリズム運動が盛んになって、尋常小学校教育どころか日本語を使った教育は一切できなくなるわけだが、それまでの一時期は尋常小学校とブラ ジルの小学校が共存することになった。移住地の子供たちは、ふたつの学校に通わなければならなくなった。祖国日本の子供たちに比べると、その頃の移住地の 子供たちはずいぶんと忙しかったことだろう。もっとも学校で過ごす時間がそんな風に長かったからこそ、同窓生たちはいまだに仲がよいのかもしれない。

一日は午前と午後にわけられ、校舎はふたつにわけられて、ふたつの学校は存在した。従来の尋常小学校が「日本語学校(あるいはニッポン学校)」、ブ ラジルの小学校(グルッポと言う)が「ブラジル学校」と呼ばれた。子供たちは学年によって、昼ごはんをはさんで日本語学校生になったりブラジル学校生に なったりした。

厳しい先生のいた日本語学校に比べ、ブラジル学校での生徒たちの授業態度は、あまり誉められたものではなかったという話がある。いずれ日本に帰るつ もりでいる人の中には、子どもに向かってきっぱりと「日本語だけ勉強していればよろしい」と宣言する親さえあったという。子どもたちがついうっかりブラジ ルにいることを忘れて、何をしゃべっているかわからない教師をないがしろにしたとしても仕方ない雰囲気があったのではないだろうか。ひどかったのは特に一 部の男子生徒だったという証言が元女子生徒からあがっているが、ブラジル人教師は時に相当なからかわれ方をしたようだ。頻繁にヒステリーを起こして倒れる 教師までいたというから気の毒だ。

親の海外赴任について行って現地の学校に通うはめになった子どもの苦労はいまどき珍しくない話だが、自分の国の学校で教師になって赴任した先の生徒 が、ほぼ全員外国人だったというのは聞いたためしがない。ブラジル人教師たちのとまどいはいかばかりだったことか。教師としての理想に燃えた青年の姿など 想像すると、同情を禁じえない。

何しろ言葉が通じないわけだから問題は多かったろうし、腕白な生徒もいたのだろうが、それでも実際には大半の生徒はおとなしく授業を受けていたようだ。

「そりゃその頃は、先生といえばブラジル人であろうと日本人であろうと敬うべきものでしたから」

というKMさんの常識はほぼ共有されていたらしい。現代日本の教師が聞くとついため息のでるような言葉ではないか。

中には特に熱心な生徒もいた。

SSさんには、ブラジル語でブラジル人とコミュニケーションする、ということが愉快に思えてしょうがなかった。授業を一生懸命聞いて、憶えた言葉を さっそく使ってみる。そういう態度の生徒は教師からもかわいがられて当然だ。そうして教師たちと個人的に接する機会が増えると、またそれだけブラジル語が 身近なものになり、めきめき上達する。

ある時SSさんは、学校の向かいの病院で用事をしていた。ふと気づくと、向こうのほうから校長先生がゆっくりと歩いてくる。何だろうと思っていると、SSさんのところまでやってきた校長先生から、ブラジル語の先生が出勤してこないので代りに授業をやって欲しいと頼まれた。

「私もまだ子どもだったのに、仕方ないから黒板にアーベーセーって書いて教えたわよ」

後にサンパウロ駐在の日本人商社マン相手にブラジル語教授をしたという、流暢なブラジル語を操るSSさんの、それが記念すべき最初の授業になった。

優等生だったKMさんは、ブラジル学校の成績もよかったが、クラスのみんなといっしょに先生を泣かせた思い出がある。といってもいじめたわけではな い。ブラジル学校最初の卒業生だったKMさんたちが、卒業の記念にと先生へ贈物をした時のことだ。自分の言葉を何一つ解さない異国の子どもたちに取り囲ま れ、途方に暮れることも少なくなかったに違いないブラジル人教師にとって、いろんな苦労が報われたように感じた瞬間だったのだろう。

その時のことで、KMさんにはもうひとつ忘れられない思い出がある。感動した先生は、ひとりひとりにアブラッソをしてくれた。ブラジルにもう何年も暮らしていながら、KMさんは、このブラジル式抱擁挨拶の経験がなかった。

「あれがね、はじめてだったんですよ。アブラッソね」

いまだに照れくさそうだ。

ところで先生を泣かせたのは、いったいどんな贈物だったのだろう。

「それがねえ、思い出せないよ」

KMさんの思い出には、今でも涙を流す先生の姿が、最初のアブラッソの温もりと一緒にしまいこまれているのに違いない。たぶんその印象が強すぎて、贈物が何だったのか忘れてしまったのだ。

Read more

education ja

ブラジル国、ニッポン村だより

日本人移住地の話(2)― 学校生活

前回集合写真を紹介した移住地の小学校は、移住地に最初の住民がやってきてからほんの数年で完成している(日本人移住地の話(1)―どっちを向いても日本人より)。当時としては壮麗といってもよいぐらいの立派な建物で、ちょうど向いあわせの位置に建てられた病院と並んで、移住地のシンボルになった。

この学校で行われたのは、「日本の尋常小学校と同じ教育」だったと移民の歴史の本には書かれている。

実際、授業の大半は、日本人教師が、日本語を使って、日本から取り寄せた教科書で教えていた。ポルトガル語の教師としてブラジル人を何度か呼んだけれどもいつかなかったのだという。

「ブラジルに来ているのにねえ、今から思えばまったくおかしな話よね」と卒業生KMさんが苦笑まじりに言うように、日本の地理をおぼえさせられ、歴史は、「国史」として日本史を学んだ。

学科だけが日本式ではない。卒業生が「うさぎ追いしかの山♪」などの日本の歌を今でもきちんと歌えるのは、家で親たちが歌ったからだけではなく、学校に唱歌の時間があったからだ。体操の時間には、軍隊風の行進もあったそうだ。

運動会や学芸会ももちろんあった。舞台のある講堂、トラックのあるグラウンドはきちんと整っていた。

移住地をあげて行われる運動会は、一大イベントだった。その光景は、地域全体で祭りのようにして楽しまれた、戦前日本の小学校で見られた運動会のそれと、きっと同じようなものだったに違いない。

学芸会では、女子は「茶摘み踊り」などの日本の舞踊を披露した。男子が「肉弾三勇士」の劇をやったこともあった。日本ではちょうどそういう時代だったのだ。

図書室もあった。授業を終えた読書好きの子供たちは、そこで『キング』や『少年倶楽部』といった日本の雑誌に読みふけった。

日本の尋常小学校には御真影と呼ばれた天皇の肖像写真があって、紀元節、天長節などには、特別な保管場所から恭しく取り出されて飾られた。また、節目には 教育勅語が奉読され、生徒たちはそれを諳んじていたものだ。どのようにして下賜されたものかわからないが、日本人移住地の「尋常小学校」にも御真影があっ た。教育勅語を今でも空で言える卒業生がいる。ちなみに運動会が行われたのは、天長節である。

移住地の学校のこんな様子を知ると、まるで日本人移民はブラジルに日本の飛び地でも作ろうとしていたかのように思える。しかし実際にそんな非現実的 な企てがあったわけではなく、教育熱心な日本人移民が公立学校の開設を待ち切れずに自力で学校を建設し、つくってみたもののブラジル政府や州政府がすんな り教師を派遣してくれるわけでもないからとりあえず日本の教育を始めてみた、というようなことでもあったらしい。

ちょうど日本でも教育熱が盛んになった頃である。外国に来たからといって自分の子供が学校にも行かずにいる状況を受け容れられない親も多かったろう。定住 を前提として開拓された移住地にも少なくなかった、いずれ日本に帰るつもりでいた移民たちはなおさらそうだったろうし、それなら日本式教育は好都合だった だろう。

しかし移民先の外国で子供たちに祖国の教育を施すというのは、あまりにも目立ちすぎたようだ。ブラジル政府や州政府もこれを見過ごすことはできなかった。

日本人移住地の学校ができたころ、ブラジルではナショナリズム運動が盛んになりつつあった。国土がべらぼうに広く、州同士で戦争になるほど強烈な対 抗意識を燃やしているなかでひとつの「ブラジル人」をつくろうというのだから、相当な力業が必要だった。そんな状況で、移民が、母国語で、母国式の教育を することが見逃されるはずはなかった。

移民を「ブラジル人」にしようとする計画は、子供に外国語教育を施してはいけない(つまりポルトガル語以外だめ)という法令などによって徐々に形になり、 戦争の影が色濃くなるなかで強化されていった。移住地の小学校は、開校してわずか数年で日本語による日本式教育を断念せざるを得なくなった。ブラジルの日 本人移住地の「尋常小学校」の命脈は意外と早く尽きた。

KMさんは、「尋常小学校」時代の移住地の小学校に6年間通った。学校自体の存続期間の短さもあって、全課程で日本式教育を受けた生徒はそれほど多くはない。

KMさんが大切な書類を入れてある箱には、小学校6年間の修了証、通信簿、皆勤賞や精勤賞、成績優秀賞などの賞状などがきちんと収められてる。

6年の課程のうち、最初の4年間が「尋常科」、あとの2年間は「高等科」である。「日本の尋常小学校と同じ教育」と、話には聞いていても、修了証書に「尋常科1年」などと記されているのをみると改めて驚いてしまう。

小学校6年間、見事な成績をとり続けたKMさんに、学校にまつわる思い出話をねだると、いつも少し恥ずかしそうに、つまらない話だからとことわりな がら、いったんしゃべりはじめると次々と愉快なエピソードを披露してくれる。日本人移民にとって難しい時代にあっても、小学生たちはそれなりに楽しい、か けがえのない学校生活を送ったようだ。

80歳を越えた元移住地小学校同窓生たちは、今でも毎月サンパウロで集まりをもっている。

Read more

Series this author contributes to