https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/659/
徴兵忌避者(1925年生)
(英語) (刑務所の中で)僕らは、「この張りつめた雰囲気をなんとかしよう。ちょっとしたスポーツでもすればみんなと打ち解けられるんじゃないか」と思ったんです。そして春になり、「野球をする許可を取って、チーム対向の試合でもやろうじゃないか。」ということになったんです。刑務所に服役していた人たちと試合をするために、1番上手な選手たちを集めてチームを作って試合をしたら、僕らのチームが優勝したんですよ。
そしたら刑務所内の雰囲気も実際良くなって、他の受刑者たちとも仲良くなりました。彼らは、「君たちは普通の奴らみたいだけど、なんで刑務所に入ってるんだ?」と聞いてきたんです。この辺りから、「何があったんだ?なぜこんなところに来たんだ?」という風に、他の受刑者達は僕らにいろんなことを聞いてくるようになったんです。それで僕らは、自分達は敵国外国人という烙印を押され収容所へ送られたこと、そして軍への入隊を命じられたけれど自分達はそれを拒否し、結果的に刑務所へ送られてきたことを話したんです。そしたら彼らは、「なんてことだ。君らは政治ゲームに巻き込まれて、いろんなところをたらい回しにされてるだけじゃないか。」と言うんですね。
受刑者の多くが僕らに同情してくれて、次の年の春が来ると、彼らは僕らのチームに加わりたがっていましたね。まあとにかく、僕らはそんな風に野球を通して他の受刑者たちと交流を持つようになったのですが、僕らはメインラインと呼ばる、最も厳重な監視下に置かれた受刑者のグループに属していたんです。
日付: 1997年7月25日
場所: 米国、ワシントン州
インタビュアー: ラリー・ハシマ、スティーブン・フギタ
提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project
ジーン・アクツ氏は、1925年にワシントン州シアトルで生まれた、日系二世の男性です。戦前の幼少時代をシアトルの日本街で過ごしますが、(戦争が始まると)ワシントン州ピュウアラップの集合センターおよびアイダホ州ミニドカの収容所へ収容されました。徴兵を拒否したため、ワシントン州マクニール島の刑務所に徴兵拒否の罪で入れられ、(出所後は)シアトルに再び腰を落ち着けました。(1997年7月25日)
日系アメリカ人であるがゆえに失った鉄道職 (英語)
初生雛鑑別師 (1923年生)
真珠湾攻撃後に映画館で受けた人種差別 (英語)
強制収容所に送られる大勢の日系人を乗せた汽車との遭遇 (英語)
教育界における女性差別(英語)
(1925 - 2018)ハワイ出身の教育者、二世
FBIに尋問された父(英語)
戦時中の日系人への政治的な影響(スペイン語)
二世日系チリ人、ビジネスマン(1950年生)
アルゼンチンでの差別(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
戦時中の苦難(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)
日系人としての誇り(スペイン語)
戦中に救済会に送られた救援金
ブラジル日系移民の母 (1900-1996)
戦時中の救済会の役割
警察での取り調べ
真珠湾攻撃の影響の少なさ (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)
大戦中のカナダ在住の日本人漁師らの扱い (英語)