ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/531/

マンザナー収容所でのスケボー体験(英語)

(英語) 『ジャイアント・ロボット』の取材で、1度マンザナー収容所に行ったんですよ。車で行ける範囲内で、当時の建物の構造がまだ残っている1番近い収容所の1つがそこだったから。そして記事を書いたんだけど、僕らは収容所のことをそれまでに読んだものとは違う角度から見てみようとしたんです。僕は本では色々読んだけど、具体的に収容所には何があったのかはどこにも書いてなかったしね。それで僕らは実際に行ってみたんです。

実は(その時)スケートボードを持ってたんだけど、舗装されてない地面でも乗れるような大きいタイヤが付いてるやつで、収容所の土地も舗装されてないだろうし地面に起伏もあるだろうから、その辺りでスケートボードに乗ってみようっていうことになったんですよ。実際に乗って回ってみたら、結構色々探索できたんです。それで、中でスケートボードができるような貯水池を見つけて、その貯水池のセメントをよく見てみたら、たぶんそれを作った日系人の名前が、枝か石か何かで刻み込まれてたんです。

こういうことって本には書いてなくて、そういうのがあるとその場所に対してずっと親近感を感じるんです。そこはかつては何もないただの土地じゃなかったんだっていうのが、僕らにはすごく興味深かったんですよ。そういうちょっと変わった文化的な要素が、実際にまだそこには残ってる訳で、面白いなと思いましたね。今まで1度も聞いたことがないこと(を発見したこと)が、1番いいなと思いましたね。

だから僕がこういう場所に行く時は、必ず本で読んだこととか歴史的なことより、ちょっと笑っちゃうようなものを探すんですよ。彼らもまだほんの子供だったんですよね。僕も同じなんです。僕だってきっと他の子と一緒に同じように名前を刻んでたと思うんですよ(笑)。たぶん名前を刻んだ当人は、それを誰かが後になって見るなんて思ってなかったと思うけど、でも僕は見たんです。知らないかも知れないけど、でも僕は見たよ、ってね。そういうのって大切だと思いますよ。


カリフォルニア州 強制収容所 ジャイアント・ロボット 投獄 監禁 マンザナー強制収容所 アメリカ合衆国 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2005年11月27日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ、ジャニス・タナカ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

エリック・ナカムは雑誌『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長です。ロサンゼルス出身の三世で、典型的な日系アメリカ人の家庭に育ちました。土曜日に日本語学校へ通い、そこで基本的な日本の文化や伝統を学び、その当時の経験は、現在の彼の日系アメリカ人としてのアイデンティティを形成するのに大きな役割を果たしています。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校東アジア研究学科を卒業後、Larry Flynt出版に就職。そこで働いている間、アメリカのアジア系のポップカルチャーに焦点を当てた雑誌を出版することを思いつきます。1994年、共同創始者となるマーティン・ウォングとともに、自らコピー・製本し『ジャイアント・ロボット』の第1版を出版しました。ミニコミ誌として始めた『ジャイアント・ロボット』は、当初の売り上げは約240部ほどでしたが、現在ではアメリカ国外にも購読者を広げています。

『ジャイアント・ロボット』の成功を元に、日本からの輸入品を取り扱う店をロサンゼルス、ニューヨーク、サンフランシスコにオープンしました。これらの店では、商品を売るだけでなく、地元のアーティストの作品などを展示し、サポートしています。また、gr/eatsという名のレストランもオープンしました。

ナカムラは、『ジャイアント・ロボット』の雑誌の仕事に付け加え、『サンセット』と呼ばれる映画制作やそのほかのプロジェクトにもにもかかわっており、2006年、彼のアメリカにおける文化的な貢献に対し、全米日系人博物館より賞を受賞しました。(2006年10月26日)

Dale Minami
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警察での取り調べ

ブラジル日系移民の母 (1900-1996)

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