日系アメリカ人3世であるノブコ・ミヤモトの人生は、俗にいう“波瀾万丈”だ。しかし、波瀾万丈の意味するところが、時代の波風にもまれ、おもいがけない事態に遭遇するなどの浮き沈みであるなら、彼女の場合は、これに加えて、自らの信念に基づいて波瀾を巻き起こしながら進んでいく、という波瀾万丈ではないか。
昨年11月に出版された『ノブコ・ミヤモト自伝 旅と愛と革命を歌う日系アーティスト』(和泉真澄訳、小鳥遊書房)には、1939年に生まれてからおよそ80年間の彼女の密度の濃い人生がぎっしりつまっている。といっても、読んでいて息苦しくなることはない。
歌とパフォーマンスで表現するアーティストとして、そして社会活動家として、つぎからつぎへと立ちはだかる“壁”に立ち向かい、困難のなかにも決して信条を曲げずに活路を見出す姿勢は、時に悲哀も漂うが痛快でもある。
どんな人でも生れる場所や境遇は選べない。多かれ少なかれ、生れにまつわる運命をその後も背負っていくことになる。ただ、それをどう変えていくか、あるいは変えずに流れのままに行くのかは人によって異なる。ノブコ・ミヤモトの場合は、日系であるという出自に強く制約されるが、それを強烈に意識する延長線上で、変えるべきものは変えるという生き方を貫いていく。
そうした自身の人生を晩年になって振り返り、過去の事実を総括したのが、この自伝だ。言い換えれば、生き方の総括でもある。
波瀾は、彼女の出生時に幕をあげる。自伝はこうはじまる。
——私は自分がいるべきでない場所に生まれた。二歳になると、敵、スパイ、アメリカの国内治安を脅かす存在となった。まもなく、私と外見の似た一二万人の人々とともに、大人たちが当時「キャンプ」と呼んでいた場所へ連れていかれた。でも、そこはサマーキャンプではなかった。——
ノブコの母の父は、福岡県出身で米作りの夢を追い1905年にカリフォルニアにやってきた。そして日本から“写真花嫁”として嫁いできた日本人女性と結婚し、ノブコの母が生れる。一方、ノブコの父の父は熊本県出身で、アメリカにわたり鉄道工夫として働き、やがて白人の女性と結婚し、ノブコの父が生まれる。ノブコは、日本人の血を引く2世の母と、日本人と白人のハーフである日系2世の父との間に生まれた、日系3世となった。
ロサンゼルスで生れて2年後に日米間の戦争がはじまり、他の日系人同様にノブコの家族は強制収容されるが、父親がモンタナ州での砂糖大根の収穫労働に志願し、家族はモンタナ州の農場に送られる。その後、内陸部に身元引受人がいるものは収容から解放されることになり、父方の祖父が所有するアイダホ州に移動。
戦争が終わると、家族はロサンゼルスに戻り、新たな生活を恐る恐るはじめることになるのだが、ノブコは、アメリカにおける日系というマイノリティーの置かれた立場を意識させられる。と同時に、マイノリティーであることの意味や人種の違いによる差別や偏見に敏感になる。
自宅は、黒人や日系人など有色人種が住む地域にあったが、母親は「クロちゃんの子どもと遊んじゃダメよ!」と注意する。一方、白人の少年は、ノブコに対して通りすがりに「汚いジャップ野郎!」と罵声を浴びせる。さらに、同じ日系人の女の子からは「私たちあんたみたいな人とは遊びたくないの!」と言われる。ノブコに白人の血が入っているからだ。
ノブコは学校に通うと同時にダンスを習い始め、練習に打ち込む。日系というマイノリティーで、その世界で認められるには、ふつうの2倍の実力をつけなければならないと知らされ、必死になる。その甲斐あってか、やがてプロのダンサーとして活躍。「王様と私」、「ウェスト・サイド・ストーリー」の映画にも出演し、メジャーの舞台に立った。
しかし、ここで自分が求められるのは、日系、アジア系、あるいは有色人種としてのキャラクターであり、白人から求められる役割を担っていたのだと痛感する。役者になる勉強もしたが、求められる役のタイプは受け入れ難かった。テレビシリーズ「ララミー」で西部を旅する芸者、「ドリス・デイ・ショー」でのメイド、ビル・コスビーの最初のシリーズ「アイ・スパイ」での日本人スパイ、といった役だった。
モデル・マイノリティーからの脱却
「私は、見た目はアジア人だけど自分はアメリカ人だと思っている混乱した世代の一員だった」という彼女だが、徐々にその混乱から抜け出し、日系3世というアイデンティティを自覚し、確立していこうとする。おとなしく従順で我慢強い。そういった「モデル・マイノリティーとしての日系の地位から脱却」し、日系だけにとどまらずアジア系アメリカ人の連帯を目指した。
1970年代には、ニューヨークに行き、アジア系アメリカ人のための活動に従事し、黒人運動にも関わる。自分たちの歌とは何かを求め、文化や芸術はどうあるべきかを追求した。西洋文化のなかのエリート主義的な芸術ではなく、民衆のための芸術を考えた。
このころ私生活では、黒人解放運動の指導者マルコムXとも関わりのある黒人男性の恋人との間に、男の子を授かる。日系でシングルマザーはまれな時代、「私は一生取り返しがつかない、日系家族にとっては恐ろしい大罪を犯してしまった」と悩みながらも、カリフォルニアの仏教寺院の住職の言葉などに支えられ、出産、やがて母にも受け入れられる。
1978年には、仲間とともに非営利芸術団体「グレート・リープ(Great Leap)」を結成して、草の根的に多文化主義を実践する活動を始める。そのひとつが、音楽やダンスを伴うメキシコの伝統的な集会であるファンタンゴと日本の夏のお盆を組み合わせたファンタンゴお盆(FantangoObon)だ。
全米のメキシコ系、ラテン系のコミュニティーにファンタンゴを広めようとする活動に日系の伝統行事を合わせた試みは、さまざまな文化的な背景を持つ人々をつなげようという、これまでの活動の成果である。
アメリカでこうした人種や文化を超えた横のつながりを探ってきたノブコだが、日本にある自らのルーツとの接触は21世紀になってからだった。初めての訪日は親戚に認められるだろうかという不安でいっぱいだった。が、それは杞憂で、温かく理解をもって迎えられたことで、初めて気づいたことがあった。
「日本にいる親族は、私たちのことを覚えていて、私たちを恋しがり、私たちのために苦しんだ。なのに、私たちは彼らのことをほとんど知らなかった。生きの延びることに精一杯で、必死にアメリカ人になろうとした。」
日系というルーツから出発し、他のマイノリティーや民衆との連帯を求め、やがてルーツとの繋がりをえる。自伝は、そうした長い旅の記録でもある。(敬称略)
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