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第15回(後編)二世が政治的活躍した日系市民協会

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母の会の創立

「市協の母の会、第一会合」(1939年3月16日号)

「市民協会では母親と娘の理解促進、協力達成の見地から今回、母の会を組織する事となり、来る20日に第一次会合を催す事になった。行く行くは家庭問題、二世女子指導問題等に就き具体的意見の交換会なども開く筈で各婦人団体を超越して多数母親の参加を希望してゐる。右に就き坂本君は語る。『婦人会に加入して居らぬ主婦も多数居られる様だし、市協が発起人となって統一的母の会を組織し母子協力の実を挙げたいと思って居る』」

この「母の会」に対して自身のコラム「北米春秋」で有馬純義は次のように語っていた。

花園一郎「市民協会と母の会」(1939年5月9日号)

「市民協会が発起となって母の会が組織されたと云うふことだ。その目的は母親と娘の理解促進、協力達成と云ふことにあり軈(やが)ては家庭問題、二世女子指導問題に就ても具体的意見の交換、研究もしやうと云ふことである。この全ては市民協会の発案として最近の傑作たるを失わぬ。(中略)

在米同胞社会は人種的には日本人、社会的には米国の思想、習慣、風潮に影響を多分に受ける特殊な社会である。特に第二世の出生と成長が益々この社会の生活と思想を複雑にするのである。彼等は日本人にして米国人、英語を話し日本語を学ぶ。家庭に於ては日本の古い習慣を自然に受け継ぎやがて長ずれば米国の風習、思想の影響から免れることが出来ない。(中略)

同胞婦人は米国市民の母と云う事実だけで実に稀有な責任と使命を従って困難を負はされて居るのである。その母と子供の理解と協力の為めに母の会の生まれたことを僕は心から喜ぶものゝ一人である」


演芸会の開催

市民協会はシアトル在留日本人社会との融和を計ると同時に、活動資金確保のために演芸会を開催し多くの人に参加を募った。

「市民協会演芸会」(1935年10月19日号)

「市民協会の演芸会は日本館で上映される。(中略)入場料は35仙、子供20仙で此の収入で、来年当地で開かれる大会の経費を搾り出そうと云ふ計画」

「市民協会主催楽しき一夜」(1939年4月27日号)

「日系市民協会主催のコミュニティ・ナイトは明日開催。プログラムは左の如し。来賓挨拶、佐藤領事、三原源治、野垣健雄、ダンス、ピアノ、バイオリン、チェロ等演奏、独唱等(以上すべての出演者氏名掲載)」

「市民協会演芸会」(1939年11月1日号)

「日系市民協会の基金募集演芸会は来る4、5日夜7時より日本館にて華々しく開幕される。プログラム:英語喜劇、踊り『草津節』、独唱、バイオリン、タップダンス、第3世踊り、独唱、リーディング、筑前琵琶、アコーディオン、尺八三味線合奏、踊り『安来節』、菊池寛『父帰へる』、スパニッシュダンス、バイオリン、喜劇(以上すべての出演者氏名掲載)」

「二世歌姫松田嬢」(1939年12月5日号)

「カリフォルニア州で生まれベルリンで勉強し、更にシカゴで磨きをかけたコロラチュラ・ソプラノ歌手松田千代子嬢は至る処の独唱会で好評を博し英字紙も同嬢の美声に賛美を呈して居るが当地市協主催の独唱会は明晩、ワシントン・ホールで開催されるので多数同胞の来場を希望してゐる」 

『北米時事』1939年12月5日


大戦下の日系市民協会

日米大戦までに日系市民協会は政治的活動が定着し、数々の日系市民の権利拡大の実績を残した。そして大戦に突入後は、シアトル日系人社会の擁護の為に懸命に活動する様子を掲載した記事が多く見られた。

「盛大だった日系市民愛国大会」(1942年1月9日号)

「スポ―ケン市日系市民倶楽部主催による愛国大会が催され、出席者一世及び二世200余名に達す近来にない盛大な会合であった。来賓として市長サデリン氏、合衆国検事補エリソン氏、スポ―ケン市両英字新聞記者二名であった」

「米国への忠誠表明に鄭重なる返書」(1942年1月13日号)

「昨年12月22日市協非常時防衛委員会主催の下に開催されたアメリカニズム強調大会は出席者実に2000、同胞社会初まって以来の盛大なものであったが、其の際約1300名の署名した米国への忠誠を表明する決議文を採択、直ちにローズベルト大統領に宛て送付したのに対し昨1月12日国務省行政官補ハロルド・ホスキンス氏署名入りの感謝状が市協防衛委員会坂本委員長宛に到着した」

「ポートランド市民協会主催で米国主義強調大会」(1942年1月21日、24日号)

「ポートランド市民協会では現下の非常時下に於て、第二世は勿論、第一世も米国へ忠誠を誓ひ得る機会を作る為、来る23日シャッツク公立学校講堂に於て米国主義強調大会を開催する。特に此の大会にはリレイ市長を初め、ナイルス警察署長、赤十字社秘書ドイル嬢、オレゴンジャーナル紙編集人ダーナ氏等白人知名の士が出席して演説を行ふ。(中略)このアメリカニズム強調大会は出席者600名に達し近来にない大成功理に終はったが、特に来賓の白人緒名士は皆第二世及び其の両親である第一世に同情に溢れた演説を行ひ、挙国一致の為に万難を排して共に進まん事を強調した。尚今大会に於て全出席者は米国への忠誠を誓ふ決議案を大統領へ打電する件を全員一致で採択した」

「全米の正岡書記長近くシアトル市へ来る」(1942年1月28日号)

「全米日系市民協会書記長として非常時下に東奔西走、日本人社会の為に尽力して居る正岡氏はサンフランシスコを去る26日出発、北上を開始したが、先ずサクラメントに於て官辺(かんぺん)と懇談会、ポートランドに至り、更に当地方に来て西北部市協議長井芹タム氏及び坂本好徳氏等と各種の問題に就て懇談する事になって居る」

「タイムズ紙の市協写真」(1942年1月31日号)

「太平洋開戦と共に複雑化せる日本人社会の緒問題解決及び之が対策に昼夜献身的奮闘を続けてゐる市協の涙ぐましい活躍ぶり及び第二世の戦時体制下の生活様式が本日シアトル市タイム紙に全頁写真版で紹介されてゐる」

「市協評議会役員選挙」(1942年2月2日号)

「昨朝市民協会西北部評議会の役員選挙が行われたが、其の結果井芹タム君が満場一致議長に再選、書記長に荒井成彌弁護士、会計には安村ジョージ君が夫々選ばれた。尚全米市民協会書記長正岡氏は過般来沙当地に滞在中であるが、今夜玉壺軒に於て歓迎晩餐会が催されると」

1942年2月19日にルーズベルト大統領行政命令第9066号、「陸軍長官へ軍事地域指定権の付与」が出された直後の坂本氏による発言の記事があった。

 「集団的の移動を寧ろ我々は希望―坂本防衛委員長語る」(1942年2月25日号)

「坂本市民協会防衛委員長は24日次の如く語った旨英字紙は報じて居る。

『我々は此所に留まり、他の米国人と共に国の為戦ひたいと思ふが、若し立退かねばならぬ事になれば、命令に従ふだけの覚悟は出来て居る。併し若し立退かせられるなら日常生活に困難を生ぜぬ為寧ろ“コミュニテー”として移動するのが最善方法である。そうすれば何処へ行っても我々は農園を作るとか工場を建築するとか、其の他何でも団体として仕事が出来る。立退く事になれば日本人は後に残す財産に適当なる保護を加へる為充分な管理人を要請するだろう』」

「明日立退き問題で聴聞会開催―坂本防衛委員長出席―」(1942年2月27日号)

坂本好徳氏は大戦中、市協防衛委員長を務め、シアトル在留日本人の救済のために立退き問題に就ての聴聞会にラングリーワシントン州知事、ミルキンシアトル市長等のシアトル市有力者9名の證人のひとりとして出席した。

『北米時事』最後の発行となった1942年3月12日号第一面に、市協緊急防衛委員会のスタッフ達が事務所で奮闘している時の様子を撮影した写真が掲載された。立退きを迫られるシアトル日系人救済のために多くの関係機関と懸命に連絡している様子が臨場感をもって如実に伺える。 

『北米時事』1942年3月12日

次回は幼少時日本へ帰国し、再渡米した帰米二世によって結成された帰米日系市民協会の活動についてお伝えしたい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

参考文献

竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
在シアトル日本国総領事館『ワシントン州における日系人の歴史』在シアトル日本国領事館、2000年
在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年

  

*本稿は、『北米報知』に2022年7月3日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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