ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2023/12/13/north-american-times-17-pt1/

第17回(前編) 二世女子日本見学団

前回は帰米二世の設立した帰米日系市民協会の活動についてお伝えしたが、今回は二世女子日本見学団についてお伝えしたい。

アメリカで生まれた二世女子は、国語学校や両親から日本語や日本の文化、風習を習ったが、よく理解できなかった。彼女達が日本の実情を実際に体験する目的で、1939から1940年頃、いくつかの日本見学団が結成され、日本に長期間滞在し、日本各地を見学した。初めて見た日本をアメリカ生まれの二世女子達がどのように思ったか、興味深い記事1をいくつか紹介したい。


母国見学団の隆盛

サンフランシスコ総領事館、ロサンゼルス、ポートランド、シアトル各領事館からなる太平洋沿岸の領事会議で、当時盛んに行われた二世団体の母国見学をどのようにして円滑に実行していくかが議題となり、その具体的指針が出された。

「領事会議の申合せ」(1939年11月1日号)

「母国見学のため在外二世団体が日本を訪問した場合、これまで紹介の鉢合わせや、手違ひで煩雑を来す場合が多かったので、先般サンフランシスコで行はれた沿岸領事会議ではこれ等団体が見学旅行出発前の準備に就いて次の打合せを行った。

△二世母国見学団の出発前における準備に関する注意(領事会議申合せ)

一.  日本人会主催又は日本人会、又日本人会関係団体の共同主催のものに限り紹介することゝす。
二.  日本に於ける統一機関は外務省とす。
三.  外務省は派遣地の在京関係者(新聞、雑誌等)並に関係方面と連絡すること。
四.  領事館より本省(外務省)への通告は少なくとも一ケ月前に行ふ事」

『北米時事』1939年11月1日

この領事館の申し合せにつき北米時事社社長の有馬純清が次のように語った。

「北米春秋 — 母国見学団と外務省」 花園一郎(1939年11月3日号)

「第二世の見学団が折角日本を訪問して、紹介の鉢合わせや手違ひのため、充分その目的を達し得ぬ場合が多かったというので先般の領事会議で、これに関する打合せが行はれた。その主旨は領事会議の在留同胞に対する親切と厚意に出づるものとして感謝されねばならぬと思ふがその打合せ事項は反って事実に則せぬものであるやうに思ふ。(中略)

日本人会の紹介が必要だとか、日本の統一機関は外務省であるとか、これ等はあまりに形式的で疑問に思う。目下日本へ見学中の太陽女子見学団は日会が主役ではなく実に岡田君の熱心と誠意によってあれ丈けの準備が出来たのではないか。これを若し日会主催でないから、領事館が紹介せぬと云ふことになるのであったら形式を重んじて、事実を無視する結果になるのではないか」


太陽ガールズの日本見学

太陽ガールズは1940年発刊の『在米日本人史』に次のように掲載されている。

「1925年岡田伴三案にて太陽野球倶楽部関係の子女を収容して社交修養を目的とし、度々日本に見学団を送りて、有名である。目下その第5回見学団が日本訪問中である」

1939年9月29日にシアトルを出発した太陽ガールズの第5回見学団の様子を記載した記事が掲載されていた。

《シアトルでの送別会 — 1939年9月27日》

「太陽ガールズを石出さんが招く」(1939年9月28日号)

「太陽ガールズの一行11名は明[日]29日出帆の氷川丸で渡日するので石出領事代理は昨日、領事官邸に一行を招き、送別茶会を開かれた」

『北米時事』1939年9月28日 (写真中央が森下イシ監督、左が石出領事代理、右が北米時事社、有馬純義社長)

《横浜到着から東京見学 — 1939年10月13日から20日頃まで》

「太陽ガールズ、ラジオ放送」(1939年10月18、19日号)

「去る13日、無事に横浜に到着、横須賀、東京方面見学中の太陽ガールズは、18日、午後9時30分、日本放送協会の短波放送により日本の印象を在米の人々に伝えた。聴取状況頗る不良だったが、大体次の意味の放送だった。

『私共は皆元気で見学を続けて居る。 東京市長にお目にかかり、靖国神社参拝、平林少将(団員、平林グロリヤさんの叔父)から御招きにあづかった。私共は只今、女子青年会館に止宿して居る』」

「太陽ガールズ歓迎攻めで多忙」(1939年10月30日号)

「太陽ガールズ一行の動静に関し東京の鶯谷(うぐいすだに)精一氏から左の如く伝へてきた。

『東京を皮切りに10月16日には郵船会社に招かれ、17日には東宝(宝塚)で観劇。シアトル倶楽部、文部省のお茶会にも出席。19日には、日米協会主催、グルー駐日米国大使歓迎会に陪席。また東京市長、陸海軍省訪問し早慶野球戦をも見物』」

『北米時事』1939年10月30日

見学団の引率をした太陽ガールズ・マネージャー、前田昭(あきら)氏による10月16日から20日頃までの東京見学の様子を詳細に伝える記事が2回に渡り掲載された。特筆すべき記事を抜粋してみた。

「東京見学(一、二)」(1939年11月13、14日号)

[16日] 総理大臣官邸のお茶の会にお招きの時、太陽見学団歌、愛国行進曲を歌った。

[17日] 高松宮両殿下に拝謁し日本訪問の感想につき御下問があった。主婦の友社に招かれ、山田わか先生と社の方より歓迎を受けご馳走になった。

[18日] 東京高等女子師範学校見学、国際文化振興会のお招きで日本の著名な先生との話ができた。

[19日] 文部省訪問し文部政務次官作田隆太郎氏に面談。グルー駐日米国大使歓迎会では尾崎行雄氏、矢田部三郎氏、福井菊三郎氏などの名士と話す。北米時事社の有馬さん(純義社長)のお父さん(有馬純清(すみきよ)前社長)との晩餐を戴き、ミセス有馬も御一緒してくださった。

[20日] 東京見学の最後の日20日2に靖国神社の臨時大祭で天皇陛下の御参拝を拝観した。

当時東京にいた北米時事社前社長の有馬純清氏が桜岳生のペンネームで、1939年11月15日号「東京だより」で太陽ガールズ見学団について次のように語っている。

「太陽女子見学団もよき時機に来朝いたし、日本国民の忠誠心も理解し得、また日本文化の如何に進歩せるかを知り得る所多かる可し。シアトル倶楽部にては、去10月18日太田君の経営する丸二食堂に見学団一行、及び今回拓務参与官に任命されたる笠井重治氏、前外務政務次官清水留三郎氏を招待して晩餐会を開き、多数参加いたし盛会だった。(中略)

清水氏は1903年にワシントン大学にて勉強され夫れより東部に遊学されたる人。太陽見学団は上田豊(元加州に在住し第二世教育に貢献せし人)森下トシ、前田昭氏に引率され、鶯谷精一、松本瀧蔵、二氏に世話されて学校の参観、各種の見学等をなし、また各方面の歓迎会等に出席した。(中略)

丁度小生も滞京中なりし故、北米時事社を代表して一夕丸二食堂に見学団一行を招待し言はば水入らずの会合を催し、打ちとけて歓談した。団員たちは今晩は肩の凝らない実に愉快な時を持つを得たりと喜んだ」

《鎌倉から日光見学 — 1939年10月21日から23日頃》

「日光見物、太陽見学団」前田昭(1939年12月15日号)

「横須賀軍港見学、鎌倉、江ノ島見学、玉川学園から日光へ向かう。ケゴンの滝、中宮祠、東照宮陽明門見学、日光から仙台へ向かう」

《松島見学 — 1939年10月25、26日頃》

「東北見物、太陽見学団」前田昭(1939年12月18日号) 

「松島の陸地見学、豊臣秀吉、大正天皇が訪れた『月見亭』見学、雨の中篠原へ、長野に着くと防空演習の最中で真っ暗」

《長野見学 — 1939年10月27、28日頃》

「雪の長野へ太陽見学団」前田昭(1939年12月19日号)

「善光寺でのお経、女工1,000名位、男工2,000名位働いている板倉製糸工場見学。昼に工場長が久し振りの洋食ご馳走してくれ皆舌鼓を打つ。

洋食店主の森下さんは昔シアトルに居て、メーン街の開運堂でお菓子をよく買ったそう。その人が今同じ名前の菓子を作り、沢山な人が働き大した成功している」

《大阪見学 — 1939年11月4、5日頃》

「太陽ガールズ、大毎社で歓迎」(1939年11月29日号)

「母国日本での花嫁修業とよい婿捜しに来朝したシアトルの二世、18、9歳の娘盛り、16人の来阪第一日は宝塚ホテルにおける大毎社国際課主催のお茶の会を中心に、雨の日ながら心ゆくまでなごやかに日本趣味に浸った印象深い一日だった」

第17回(後編)>>

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

2.太陽ガールズは10月22日東京を出発。日光へ向かった。

 

*本稿は、『北米報知』に2022年8月30日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2023 Ikuo Shinmasu

日本語新聞 新聞 シアトル 北米時事(シアトル)(新聞) ツアー (tours) アメリカ合衆国 ワシントン州
このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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