1970年にキング・ストリートに店舗を移すのと前後して、モリグチ・ファミリーの宇和島屋(Uwajimaya)は、店舗での小売り以外にも商売を広げ多角化していった。1966年には、食品の卸部門をはじめた。Seattle Asia(シアトル・アジア)から由来しSeasia(シーアジア)と名付けられた。
日本をはじめアジアからの輸入品を、スーパーを中心に他のアジア食品などを扱う店やレストランに卸した。この部門は、モリグチ家の三男のアキラと四男のトシ(トシカツ)が担当した。ワシントン大学のあるユニバーシティ地区にあるチェーンストア、QFCの店に卸したことで、勢いづき事業は広がりをみせた。
83年には、寿司などの食品を製造し、スーパーやレストランなどに販売する部門としてカスタム・フーズ(Kustom Foods)をはじめる。さらに88年には、肉や野菜、食料品を地元のアジアン・レストランや食料品店に売るフード・サービス・インターナショナル(Food Services International)部門を設けた。
本業の宇和島屋については、98年に隣りのオレゴン州にビーバートン店を開いた。そして2000年、これまでの“本店”からすぐ南にUwajimaya Village(宇和島屋ビレッジ)なるいわば新館をオープンさせた。
約1860坪の面積をもつ店舗のほか、ギフトコーナーや大きなフードコートが配され、同じ建物内では紀伊国屋書店、銀行、眼鏡店などが営業。建物の上部は176戸が入る集合住宅という複合的なビルだった。
この2年後の2002年7月、モリグチ家を支えてきた“母”であり、創業者森口富士松の妻、貞子が94歳でこの世を去った。愛媛から単身アメリカにやってきた富士松によってタコマで小さな食料品店としてスタートしてから74年後のことである。
かつてアメリカ西海岸の日本人コミュニティーがあった都市には、数多くの日本の食料品を扱う商店があった。しかし、戦争や世代の交代によって継続することができなくなったり、時代の流れの中で客層が変化したことに対応できなくなるなどして、その多くが消えていった。
このなかで、宇和島屋が継続してこられたのには、いくつかの理由があったが、まずなによりモリグチ家の富士松・貞子夫妻と次世代の子供たちというファミリーの結束がその理由として考えられる。
それぞれの関わり方で
モリグチ家には、年齢順に長男ケンゾー、長女スワコ、二男トミオ、三男アキラ、次女ヒサコ、四男トシ(トシカツ)、三女トモコの四男、三女の7人の子どもたちがいた。このうち、ヒサコを除いて6人が、何らかの形で宇和島屋の経営に関わってきた。また、ヒサコも学生時代には、シアトル万博での店で中心になって働くなどし貢献してきた。
子どもたちのだれもが、小さいころから両親のもとで店の手伝いをし、また成人してからもそれぞれの仕方で宇和島屋を支えた。
長男のケンゾーは、タコマの店の時代から父親の仕事を手伝った。富士松がトラックで日本人の働く現場などへ“行商”に出かけたときは、一緒についていきトラックの荷物の上で眠ったこともあった。
以来、軍隊にいた一時期を除いて一貫して宇和島屋の経営に携わってきた。長男らしい責任感からか物事に慎重で堅実な性格だった。次男のトミオも同様に、幼いころから学生時代を含めて両親を支え、富士松亡き後は社長となって宇和島屋を発展させてきた。
長女のスワコは、戦前に日本で教育を受け戦後になって戻ってきてからは、家事手伝いをこなしてきた。「女は大学に行かなくていい」という富士松の、昔ながらの日本的教育方針で、彼女は高校を出ると働きに出てさまざまな仕事についた。結婚して三番目の子供が二歳になった65年から店を手伝うことになった。
それからしばらくして、店で扱うギフト商品の仕入れ担当となった。日本にいただけあって7人のなかではだれよりも日本語の読み書きが得意な彼女は、日本に行き商品を買い付ける仕事についた。
卸部門を任されていた三男のアキラは、スワコとは別の意味で7人の中では異色な存在だった。他の兄弟・姉妹から見ると、彼は自由奔放な性格で、プレイボーイでギャンブラー。かっこよくてスマートで、率直な人だったという。ワシントン大学で電気工学を学び、一時陸軍にいたころは落下傘部隊にいてドイツに駐留していた。
宇和島屋の経営に携わる一方で、レストランチェーンを立ち上げるなど、起業家精神をもち、ギャンブラーといわれるだけあってか、リスクに挑戦しながら前に進むタイプだった。が、残念ながら2012年に73歳で亡くなった。
次女のヒサコも幼いころから父親のさつま揚げ作りをはじめ、葬儀用のお茶の包装や商品の整理など、あれこれ店の仕事を手伝ってきた。ワシントン大学に行き、アパレル・デザインなどを学び、サンフランシスコで働いたのちにアラメダ大学でアパレルやファッションについてを教えることになった。その後夫が宇和島屋で働くことになったこともあり、シアトルに移り78年からコミュニティー・カレッジでアパレル・デザインを教え、多くの学生をこの業界に送り出した。
彼女が、教職の仕事に満足していることを知っていたので、兄弟たちも彼女には宇和島屋の仕事に関わるようには求めてこなかったという。
「小柄で活動的で、衣服づくりにはすごい才能があって、生徒からも好かれる。だれかのことを悪く言うことがない。だれにもでよくする」と、弟のトシは言う。
一方そのトシについて、ヒサコはこう評価する。「賢くて、数学的な頭の持ち主で、賢かったから両親は彼を大事にしていた」。彼もまた若いころから家業を助けてきた。高校時代は、学校が終わるとほぼまっすぐ帰宅して店で働いたので、同級生が覚えているようなキャンパス体験がないという。
兄弟では、初めてシアトルの町を離れて、オレゴン州のリード大学で学んだ。スティーブ・ジョブズも通った学校だった。このあとワシントン大学などでも学び、その後宇和島屋の仕事についた。最初は、サウスセンター内の店舗の運営に関わり、その後は兄アキラをサポートして卸のシーアジアをともに手掛けた。
末っ子のトモコもまた、学校が終わると店のレジ打ちや商品の補充や皿洗い、従業員のための食事づくりなどをしてきた。ワシントン大学でグラフィック・アートを学んだのちは、サンフランシスコの美術関係の代理店で働いた。商業美術の専門家になるのが目的だった。結婚して二人の娘ができてから、バークレーにいた姉のヒサコがシアトルに戻るというので、「それなら私たちもシアトルへ行こう」と、簡単に考えて戻ってしまったという。
そこで、彼女の専門知識を生かして宇和島屋の店舗でディスプレイや広告といった分野を担当するようになる。
こうしてみればわかるように、それぞれがさまざまな形で、宇和島屋に関わっているのがわかる。時に激しい議論もすればケンカになることもあるようだが、両親の苦労を見てきて、ともに小さいころから店の仕事を肌で理解して来たことが、7人の結束と和を生み、宇和島屋を継続させる力になってきたと言えるだろう。
(敬称略)
© 2018 Ryusuke Kawai