バジルがちょうど幼稚園を卒業した頃、退去と収容が始まった。当初、父親は健康で丈夫な若者たちとともに道路建設現場に送られ、バジルと母親はバンクーバーからブリティッシュコロンビア州東部、スローカン・シティの収容所に直接送られた。バジルは、収容所に行くために汽車に乗ったときのことを、はっきりと覚えている。汽車に乗るのは初めてだったので、彼はわくわくしていたという。でもなぜ汽車に乗るのか、どこへ行こうとしているのかは全くわかっていなかった。
スローカン・シティ収容所の宿泊施設はまだ準備が整っておらず、最初はテントに寝泊まりしなければならなかった。バジルはそれまで雪を見たことがなかったので、スローカン・シティでの最初の朝、目が覚めてテントを出たとき、一面の「雪景色」を目にした時の驚きは忘れられない。その後は、殺風景なホテルの部屋で寝泊まりをしたが、そこに長くとどまることはなく、父親が道路建設現場から合流すると、すぐにまた他に移った。
カメラは政府が収容前に日系カナダ人から没収するものの中に含まれており、収容所内でも公には禁止されていた。しかし時間が経つにつれ、収容所担当の役人の中には規則を遵守させることに対して寛容な態度を示す人もおり、カメラの持ち込みや写真を撮るなどの軽微な違反は大目に見るようになった1。バンクバーでバジルの父親を雇い写真の手解きをしてくれた写真家のキャンベル氏が、バジルの父のカメラを収容所まで持ってきてくれた。
バジルの父親は収容所での生活をカメラで記録しようと、あちこちの収容所を回ったその後、おそらくその正式な許可をもらったようで、残りの収容期間、イズミ一家は収容所間を転々とした。より多くの人が収容所を離れブリティッシュコロンビア州の東部へ移動するようになると、収容所で住むところを見つけることも、いくつもの収容所を渡り歩くのも困難ではなかった。
まず、イズミ一家はニュー・デンバーの収容所に移った。そこでは小さな掘建て小屋に落ち着き、バジルが小学校に入学するまでを過ごした。次に、一家は近くのネルソン・ランチ収容所に行き、二階建ての大きな小屋で半年ほど暮らした。他の人と一緒に食堂でご飯を食べていたので、バジルの記憶にある限り、母親はそこでは料理をすることはなかった。
またこの間、バジルはニュー・デンバーにいた時と同じ学校に歩いて通った。長い距離を歩くことはバジルとって当たり前となり、道中リスを追いかけていた記憶が残っている。
その後一家はハリス・ランチ収容所に移った。そこでは丘の上に立つ掘建小屋に住んだ。一年半か二年近く過ごした。バジルは、ネルソン・ランチに住んでいた時よりもさらぶ学校が遠くなったと感じたことを覚えているという。
それからレモン・クリークへ移ったが、そこで少し他のは、夏の数ヶ月のほんの短い間だけだった。最後に滞在したのはベイ・ファーム収容所で、彼らが1942年に最初に過ごしたスローカン・シティ収容所の隣にあった。
収容所ー幼少期に遊んだ記憶
収容所にいた他の日系カナダ人の子供たち同様、この期間のバジルの思い出はとても前向きで、学校や自然を楽しんだり、友達と遊んだことばかりが思い出される。一番鮮明に覚えているのは、父親と一緒にいたときのある出来事である。
「夏暑かったので、みんなスローカン川によく泳ぎに行っていました。ある時父親とこの川に行きました。川の流れがとても緩やかな広くて良い場所があって、向こう岸まで泳いで渡れました。向こう岸では男の人たちが崖から川に飛び込んでいるのが見えました。私もそれをしてみたくなり、泳いで渡ろうとしました。父は私が後をついてくるのを見て、激怒して戻るよう言うので、私は引き返しました。流れにまかれ早瀬へ流されそうになりながら、なんとか無事に岸に辿り着くことができました。」
また、彼は友人たちと一緒に自分たちが楽しむための遊びを発明したり、遊び道具を改良したりもしていた。当時人気だった遊びの一つが「アーンティ・アーンティ(おばさん・おばさん)」と呼ばれるものだった。これは、二つのチームが建物の両側に立ち、屋根に向かってボールを投げ、ボールを受ける方のチームがボールを掴んで反対側に走り、相手チームのメンバーを捕まえたりボールでタッチしたりするゲームだ。捕まった人は相手チームに入らなければならず、最後にメンバーが多く残ったチームが勝ちである。
もう一つはクリケットに似た遊びである。それぞれの陣地の端に三本の棒を立て、相手チームの棒に向けてボールを投げる。普通の野球のバットを持ったバッターが、そのボールを自分たちの棒に当たらないようにするために打ち返す。相手チームの棒にボールを当てると点数が入る。
バジルはよく年長の子供たちが野球をするのを見たり、自分でも少しやってみた。アイス・スケートを持っている人は、氷が張るとスケートをしていた。ハリス・ランチのあたりにはスキーやそり遊びをするのにうってつけの丘があった。木樽の板を使って自分でスキー板を作った記憶もあるという。そりも自分たちで作った。二つ組み合わせて二人乗りのそりも作った。自分たちが遊ぶためのおもちゃをたくさん作るために、いろいろな工夫を凝らした。
概して、バジルは収容所での子供時代を楽しんでいた。この間両親が悲しみや苦しみを彼の前であらわにしたという記憶はない。「もしそうだとしても、理解できていなかったでしょうが」とも言っている。
収容所ー学校の記憶
バジルには、収容所の小学校に通っていたときの興味深い思い出がある。ある日系カナダ人の女性が主任教師を務めていたが、彼女は高校を卒業した日系カナダ人に対して、小学生たちを教えるための指導もしていたという。学校は楽しかった。
バジルにはベイ・ファーム小学校の鮮明な記憶も残っている。バジルのクラスが2階で授業を受けていた時、階下の家庭科室から火の手が上がった。そう、「本物の火災訓練」だった。幸いなことに被害が大きくなる前に消し止めることができた。
バジルは、収容所の先生たちは、非常に難しい状況だったにもかかわらず、上手く対処していた2。収容所には、ものが十分になく、使っていた教科書はとても古いものだった。当時教材として広く使われていた「ディックとジェイン」を読んだ記憶があるバジルはいう3。
バジルには収容所で個人的な人種差別を受けた記憶はない。収容者たちは外部との接触がほとんどなかったからである。スローカン・シティには独自の学校教育システムがあったが、日系カナダ人の子供は入学を許されなかったため、収容所内に自分たちで設立した学校に通しかなかった。
注釈:
1. クニモト(2004)、135−6がこれに関して可能性のある理由を述べている。
2. モリツグ(2001)に、収容所内の学校に関する困難や良い思い出、また難しい状況下にもかかわらず先生たちがいかにうまくやっていたかについての数々の証言がのっている。
3. 著者も1960年代半ば、偶然にも、小学校(アルバータ州の田舎)で「ディックとジェーン」をリーディング教材として読んだ記憶がある。
© 2018 Stanley Kirk