73歳。沖縄県出身。
1961年リベラルタに入る。当時23歳。
日本から船に乗りブラジルへ。そこから汽車でボリビアサンタクルスへ。
ちょうどボリビア独立記念日と重なり、2週間サンタクルスに滞在の後リベラルタへ。
父、母、妹の4人で入った。当時は思っていたのとあまりに違ったのでとても悔しかった。
ゴム景気によって沢山の外国人がやってきた。日本人も例外ではなくその頃5000人程の日系人がおり、一番多いころで日本人は600人いた。1980年頃からはゴム景気も下降し、入ってくる外国人も減ってきた。
リベラルタには「沖縄支部」と「鹿児島支部」の日本人会があった。
1985年頃、日本からリベラルタ日本人人口調査団が来た。
日本では歯科技工士をしていた。だが自分一人でやっていける仕事を探していた。
そこにちょうど、ボリビアで働かないかという誘いを受けて承諾した。
日本からブラジルに向かって出発する3日前、3か月分の旅の食料を保存しておいた倉庫が火事にあってしまった。
ボリビア行きを断念しようとしていた時、ちょうどアメリカのボランティアの船が来て事情を知った彼らが3か月分の食料を援助してくれる事になった。
1970年頃、本格的に農業を開始。野菜づくりに力を入れた。トマト、ピーマン、ニンジン、タマネギなどを作った。家から畑のあるCAMPO(田舎)までは遠く、畑の世話をしない日曜日以外は家に帰ることが出来なかった。
初めて耕耘機を持ち込んだ。
24歳で結婚3女、3男に恵まれた。
現在長男がご本人と同居。農園を引き継いでいる。
三男、三女はコロニア・オキナワに。残りは日本に住んでいる。
1991年に一度帰国。
子供達が成長した時、リベラルタに来てよかったと思った。
サンタクルスにいるお孫さんに会いに行くのも今の楽しみの一つ。
*JICA隊員によるブログ「アンデスを越えたニッポン人」からの転載。
© 2010 Shoko Hibino