ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/958/

補償金額の算出(英語)

(英語)当時提案された請求額は、1人1万ドルで、補償対象が12万人として、合計額は12億ドルになる計算でした。もちろん僕は、彼らが法律に、特に不法行為に関して詳しいわけではないことはわかっていました。1万ドルは小額です。政府が彼らにしたことを考えると、1人1万ドルなんて侮辱です。もう2つゼロを加えれば、ふさわしい金額に近づくかもしれません。しかし、ゼロを2つ加えれば総額は120億ドルに達し、政府はこれを負担できないでしょう。そうすると、請求額は、我々が損害を被ったとわかる程度高額である必要はあるけれど、運動自体にダメージを与える程高額であってはならなかったのです。


リドレス運動

日付: 1998年8月27日

場所: 米国、ペンシルバニア州

インタビュアー: ダーシー・イキ、ミッチェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ウィリアム・マルタニ裁判官は、ワシントン州ケントで生まれました。大統領行政令9066の発令により、マルタニ氏はワシントン大学から退学を強いられ、1942年フレズノ集合センターを経 て、ツールレイク強制収容所に収容されました。1942年秋、マルタニ氏は釈放され、サウスダコタ州ミッチェルのダコタ・ウェスリアン大学で法学を学ぶことになりました。

海軍に志願するも、4C(敵性外国人)の烙印を押され不合格となりましたが、アメリカ陸軍情報部の任務に就くことになりました。軍務を終えたマルタニ氏は、シカゴ大学の法科大学院で学び、ペンシルベニアで6カ月間の実習生となりました。その後、1975年までフィラデルフィア通常事件裁判所で裁判官の任務に就きました。

マルタニ氏は、日系アメリカ人市民同盟を拠点に活動し、様々な役割を担ってきました。また、当時のジミー・カーター大統領による、戦時中の日系人強制収容に関する調査のための、9名のCWRIC(戦時民間人転住勾留委員会)委員の1人に選ばれました。マルタニ氏は、委員に選ばれた唯一の日系人でした。(2008年4月11日)

Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

カーター大統領による委員会設置法案への署名の時のこと(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Clifford Uyeda
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クリフォード・ウエダ

補償が残した遺産(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

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Frank Emi
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フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

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William Hohri
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ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Norman Yoshio Mineta
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ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

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Jimmy Murakami
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ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

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Kazumu Naganuma
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カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

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