ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

フレッド・コレマツ

大統領令9066の合憲性に抗議(1919-2005年)

犯人探し (英語)

(英語) 自分の身に最悪の事態が起こるだろうことは予測していましたし、自由の身ではいられないだろうことも分かっていました。私の徴兵カードには「敵性外国人」と分類されていたので、政府はそう簡単に私を放っておかないだろうと思っていました。私が自由の身でいることを政府が知れば、彼らはすぐにでも私を捕まえに来るだろうことは分かっていたのです。

I*: あなたは逮捕を恐れていましたか?

いいえ。自分は何も悪いことをしていないと思っていたので、逮捕を恐れてはいませんでした。誰が悪いかと言えば、それは権力の方だったのです。私の判断では、政府がしていたことこそ、憲法に違反していたのです。

* 「I」はインタビュワー (Lorraine Bannai)


第二次世界大戦 コーラム・ノビス令状

日付: 1996年5月14日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: ロレイン・バンナイ、テツデン・カシマ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

1919年1月30日、フレッド・コレマツ氏はカリフォルニア州オークランドに生まれました。日本が真珠湾攻撃をした1941年12月7日、コレマツ氏はサンフランシスコで溶接工として働いていました。1942年に大統領行政令9066が発令された後、コレマツ氏は強制退去を拒否し、カリフォルニアから脱出を試みます。しかしながら彼は捕らえられ、強制収容に従わなかった罪で逮捕されました。その後コレマツ氏は、幾人かの日系人同様、大統領行政令9066の合憲性を問うため、裁判を起こしました。コレマツ氏のケースは最高裁判所まで持ち込まれましたが、1944年、裁判所は政府による退去命令を合憲とし、支持しました。

第二次世界大戦後、コレマツ氏はミシガン州デトロイトに移り住み、結婚し家庭を持ちました。その後コレマツ氏は一家と共にカリフォルニアへ戻ります。1980年代前半、ある資料の発見と共に、コレマツ氏のケースは再審理されることになりました。その資料とは、1944年のコレマツ裁判で、連邦政府が最高裁判所に提出すべき証拠を隠ぺいしていたことを裏付けるものでした。1983年、連邦地方裁判所のマリリン・ホール・パテル判事は、1944年にコレマツ氏が受けた有罪判決を無効としました。1998年、コレマツ氏は大統領自由勲章を授与し、2005年に他界しました。 (2008年4月15日)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士