ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/666/

大学で初めて知った強制収容の事実 (英語)

(英語) それで私は、アイデンティティや人種・民族のルーツの問題を紹介する基礎的な授業を受け始めたんですね。アジア系アメリカ人の問題を研究する人が来て、アイデンティティの問題を探ったり自分たちが何者で、いかに社会と関わるべきかを学ぶ訳です。例えば、他者が我々を見るとき、見た目が違う私たちは他の人とは異なった扱いを受ける状態があって、それに対して自分達はどう対処すべきか、そして既存のステレオタイプをどう壊していくか、ということですね。

それから、アイデンティティの諸問題とは別に、歴史の問題もあります。アジアからアメリカへ渡って来たアジア系アメリカ人の移民について、それから中国系や日系、そしてアジアの様々な国や太平洋諸島系の民族がどのような扱いを受けてきたか学びました。またその一部として、日系アメリカ人の強制収容について知るようになった訳です。強制収容に関して実際に何が起こったか知ったのは、その時が初めてだったんですね。若い頃に予期せず強制収容について学んだ訳ですが、実際にその事実を読み、収容所のあった場所を認識し、またそれがどういう場所で何が発端となり強制収容に至ったのか学ぶことができたのはその時が初めてでした。


差別 教育 投獄 監禁 対人関係 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2000年3月23・24日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: マーガレット・チョン、アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project

語り手のプロフィール

ロレイン・バンナイ氏は、1955年にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた日系三世の女性です。大きな日系アメリカ人コミュニティがある(同州の)ガーディナで育ち、コミュニティーや政治で様々な役割を果たしていた父の影響や、教育熱心な母の影響を受けて育ちました。カリフォルニア大学サンタバーバラ校に入学し、そこで日系人の歴史やエスニック・アイデンティティの問題、人種の不平等を強く意識するようになります。その後サンフランシスコ大学法学部で学び、政治や社会運動への志を強くもつようになりました。

法学部を卒業してわずか2、3年後、バンナイ氏は、コレマツ対アメリカ合衆国で1994年に米最高裁が下した判決の再審を求める弁護団に加わりました。第2次世界大戦中に退去命令に背いた罪で、コレマツ事件は連邦最高裁まで持ち込まれましたが、その連邦最高裁とは、軍事的必要性という米政府の論拠を基に、日系アメリカ人を隔離し収容することへの合憲性を支持していたところだったのです。そこで弁護団は、自己誤審令状を請願し(この事件は裁判官と検事側の弁護士が誤った事実を基にしたものだと立証し)、事件(の審議)を再開させ、退去命令の事実根拠は不正であるという証拠を提出しました。これにより、コレマツ氏のケース、およびこれに似たいくつかのケースの有罪判決を無効としたのです。このインタビューでバンナイ氏は、自己誤審令状の弁護団、日系アメリカ人コミュニティーの支援努力、このケースに関わったことで個人的に得た教訓などにについて語ります。(2000年3月24日)

Sakaye Shigekawa
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サカエ・シゲカワ

強制収容以前に経験したトラウマ (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

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Sakaye Shigekawa
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サカエ・シゲカワ

「みんな、盲従した」 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

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Sumiko Kozawa
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スミコ・コザワ

英語を覚える (英語)

花屋 (1916-2016年)

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Henry Suto
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ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

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BJ Kobayashi
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BJ・コバヤシ

弁護士から開発業者へ(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

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Frances Midori Tashiro Kaji
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フランセス・ミドリ・タシロ・カジ

日系二世の医師が受けた差別 (英語)

一世医師の娘(1928-2016年)

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Sumiko Kozawa
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スミコ・コザワ

戦後の差別の経験 (英語)

花屋 (1916-2016年)

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A. Wallace Tashima
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A. ウォーレス・タシマ

日系アメリカ人弁護士として拒絶される(英語)

連邦控訴裁判所での職に任命された初の日系アメリカ人(1934年生)

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George Takei
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ジョージ・タケイ

アジア系に対するステレオタイプ(英語)

俳優、活動家(1937年生)

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Susumu “Sus” Ito
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ススム・“スス” ・イトウ

仕事を探していた時に感じた差別 (英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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Susumu “Sus” Ito
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ススム・“スス” ・イトウ

上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

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Terumi Hisamatsu Calloway
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キャロウェイ・久松 照美

サンフランシスコで受けた差別

横浜出身の戦争花嫁(1937年生)

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Paulo Issamu Hirano
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パウロ・イサム・ヒラノ

日本語の理解を深めるにつれ、日本社会に受け入れられる

(1979年生)群馬県大泉町在住の日系ブラジル人三世。デザイン事務所経営。

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Fumiko Hachiya Wasserman
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フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

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Mitsuye Yamada
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ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

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