ディスカバー・ニッケイ

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ニューヨーク市の日本人会の起こり(英語)

(英語)現在の日系人会の母体は、戦前の日本人会(Japanese Association)です。戦後、「アメリカ人」という呼び方が導入され、日系アメリカ人会(ジャパニーズ・アメリカン・アソシエーション)、すなわち日本人会と呼ばれるようになりました。日系コミュニティで活躍した人たちのほとんどが、この会に属していました。会で活動したい人は、誰でも歓迎でした。

現在は、福祉に重点を置き、社会的、教育的活動や、私のような老人の世話もしています。一世のほとんどは亡くなっていますが、二世世代は老年期に入っています。それから三世や日本から来ている人々も含まれます。私たちは、西44番街15番地に移り、このビルの11階全てを借りています。誰でも訪れることのできる場所です。図書室には、日本のビデオや出版物が揃っていますし、私たちが保存している歴史的な収集品を見に来る人も多いですね。調べ物をしたい人には、日米関係の資料も揃っています。今はもう存在していないものでも、資料として残っていますよ。


コミュニティ コミュニティー組織 アイデンティティ 団体

日付: 2000年11月15日

場所: 米国、ニューヨーク州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ジョージ・カツミ・ユザワ氏は1915年カリフォルニア州ロサンゼルスに生まれました。彼と彼の家族は1942年にコロラド州のアマチ収容所へ収容されました。1943年にユザワ氏はニューヨーク市へ転住、彼の家族も1944年に合流しました。その後、アメリカ陸軍へ志願し、2年間陸軍情報部に従事しました。除隊後はニューヨーク市で輸出業を営んでいましたが、彼の父の園芸業を助けるため自らのビジネスを廃業しました

1970-80年代にかけて、ユザワ氏は米国日系人市民協会ニューヨーク支部にて公民権運動に積極的に参加しました。ビジネスや公共交通機関の前に日本人を侮辱するサインを掲げた人々に対して訴訟を起こし、さらには高田賢三(Kenzo)論争やILGWU(国際婦人服労働組合)による地下鉄の反日ポスターキャンペーンでは先鋒をきって抗議しました。これらのキャンペーンの結果、二世活動家たちと共にAsian Americans for Fair Media, Inc.を立ち上げました。また、彼は賠償金運動にも積極的に参加し、1981年にニューヨーク市で行われたCWRIC(戦時中の民間人転住と収容 に関する委員会)の公聴会を実現させました。

ユザワ氏はブルックリン植物園での第1回桜祭りを開催し、さらには老人に対し住居や介護をバイリンガルで提供するために、非営利団体JAHFA(日系高齢者援護会)を設立しました。20世紀の第4半期はコミュニティの老人のニーズに応えるため尽力を注いでいます。

2011年10月、ユザワ氏はなくなりました。(2011年10月)

ミシェル・ヤマシロ

共感する米国的な価値観(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。