ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/479/

インタビュー

キップ・フルベック

映画製作者・アーティスト(1965年生)

アジア系アメリカ人として中国系の名前を使うことを拒否(英語)

(英語) 私は、自分がなりたいと思う姿でいることができたらと思うんです。先ほどお話ししたすごく尊敬しているアーティスト達は、仲間でもあり同僚でもあるのでとても親近感を覚えます。みんな同じような苦労をしてきましたからね。ただ私の場合は、ハパとして、アジア系アメリカ人としての自分を確立していかなければなりませんでした。そんなことが必要だとは思いませんでしたが。学生時代、私はAPSA (Asian Pacific Student Association) のメンバーだったので、アジア系アメリカ人が(一般的に)することは一通りやってきました。お盆祭りに行ったり、ハワイに住んで色々なことをしたり、日本に行ったり、中国に行ったりとね。アジア系アメリカ人であることにすごく良い感情を抱いていたんです。

でも最初の映画を撮った時のことです。応募したいくつかのフェスティバルでは選出されたのに、アジア系アメリカ人のフィルム・フェスティバルでは落選したことがありました。その組織で働いている人と話したところ彼に「そうだねえキップ、本当に採用されたかったら中国名を使った方がいいよ。ほら何て言うの・・・そのことが採用されなかった理由じゃないだろうけど、“キップ・フルベック”っていう名前を見るとすごくWASP1的な感じじゃない?」と言われたんです。「お母さんのミドルネームとか姓を自分のミドルネームとして使ったらどう?」とね。

私は多くの同僚がそうしていたのを知っています。作家、俳優、ニュースキャスターの多くもそうです。でも私はちょっと気取った感じがするので、敢えてそうしませんでした。少なくとも今はある程度知名度も上がり、アーティストとして自分を確立することができたため、そんなことをする(中国名を使う)必要も無いので、良かったと思います。

注釈: ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント (White Anglo-Saxon Protestant) の頭文字をとった略語


アーティスト ハパ アイデンティティ 多人種からなる人々

日付: 2006年5月3日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジム・バウワー

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1965年、キップ・フルベックは中国人の母とイギリス・アイリッシュ系の父の元に生まれました。5歳の時、中国人の従兄弟に「ハパ」と言われました。当時はその単語の意味について深く考えることはなかったのですが、成長するにつれ、混血としての自分のアイデンティティを表す適切な言葉ない(あったとしても差別的な意味を含んでいるものが多い)ことに気づき、「ハパ」が持つアイデンティティとしての現実的・人間味のある側面を押し出すための方法について考え始めました。

フルベックが「ハパ」アイデンティティを追求してみようと始めたのが、ハパ・プロジェクトです。ハパの顔写真をとり、「あなたは何ですか?」という質問にそれぞれ自分の言葉で回答してもらうのです。現在、約1000人以上のさまざまな世代・職業をもつハパの写真を撮り終えています。このプロジェクトはPart Asian, 100% Hapa (Chronicle Books, 2006)として出版され、2006年6月8日から10月29日にかけて全米日系アメリカ人博物館で行われる特別展kip fulbeck: part asian, 100% hapaに見ることができます。

1990年以来、フルベックはハパ・アイデンティティに関する映画やアートを手がけています。アイデンティティ、他人種・他民族、ポップカルチャーなどのトピックにおける著名なアーティストであり、彼の手がけた映画やパフォーマンス、写真などは世界各国で賞を得ています。現在、フルベックはカリフォルニア大学サンタバーバラ校芸術学部の学部長・教授であり、アジア系アメリカ人研究とフィルム研究の教員も兼任しています。優れた教授におくられるOutstanding Faculty Member Awardを過去三回受賞しています。(2006年5月3日)

ミツエ・ヤマダ

詩を通して自分を表現(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)

ファン・アルベルト・松本

エスコバールについて(スペイン語)

日本在住の日系アルゼンチン人、二世(1962年生)

モニカ・タイシャ―

ニッケイの定義(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

サブリナ・シズエ・マケナ

カミングアウトが家族に与えた影響

(1957年生まれ) ハワイ州最高裁判所判事。