https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/447/
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
(英語) 1985年のつくば科学万博で、僕がアメリカを代表してNHKのインタビューに答えたんです。インタビュアーがね、「田中先生、日本の太鼓はいかがですか?」とかなんとか聞いてきたんです。だから僕はまず、「いい太鼓をたたいてますし、衣装も素敵ですね」って言ったの。当時、日本の景気はとっても良かったから、お金がかかることもできたでしょ。でもアメリカの太鼓グループは太鼓も衣装も手作りでしたからね。アメリカのグループは日本の太鼓グループみたいに洒落た感じじゃなかったけど、アメリカの太鼓グループは、心がこもっててもっと魂がある感じでしたね。自分達の手作りで作った太鼓だからよく手入れもして。でも日本のグループは、町か市か分からないけど予算があるから良い太鼓を買っていて、誰か叩いて下さいって言う感じでね。もったいないなあと思いましたよ。僕はそんな風にインタビューに答えたんです。
アメリカ生まれの日系人にとって、太鼓は単に楽しみとして叩いていてるんじゃなくて、太鼓を叩くことで自分自信のアイデンティティを表現してるんだよね。そういう意味で僕は先生じゃないから、彼らの気持ちを正確に代弁することはできないんだけど、アメリカで太鼓のグループを作ることと、日本で作ることの意味合いは全然違うんだよ。アメリカの人の方がもっと地に足がね、ちゃんと着いてる気がしますね。彼らの太鼓の形が高価な太鼓に比べて劣っていたとしても、太鼓に対する価値観が根本的に違うんだよね。僕はこういうことを20年前に(インタビューで)伝えたんです。
日付: 2005年1月27日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: アート・ハンセン、ソージン・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
北米和太鼓の師、田中誠一氏は1943年生まれ東京出身の新一世です。千葉商科大学を卒業後、1967年にアメリカへ移住しました。移住当初はワトソンビルで苺摘みをするなど農業労働者として働いてました。その後、サンフランシスコへ引越し、1968年にはサンフランシスコの日本町で行われた桜祭りに参加しました。しかし、この時の桜祭りには彼が若い頃日本のお祭りで耳にした太鼓の音が欠けていました。物足りなさを感じた田中氏は、秋祭りの時に、友達で寄り集まり、地元のお寺から太鼓を借り、自ら太鼓を演奏したのです。以後、太鼓を学ぶために、幾度となく日本へ帰国し、そのつど日本で学んだ知識をアメリカの同志へ教えていきました。1950年代に始まった日本での太鼓復興をアメリカに持ち込み、1968年に北アメリカで初の和太鼓道場(学校)、サンフランシスコ太鼓道場を設立しました。以来、彼は何千人もの生徒を教えてきました。
今日、アメリカ・カナダには200以上の太鼓グループが存在しており、その大半はサンフランシスコ道場へそのルーツをたどることができます。田中氏は基本的な太鼓のリズムパターンや動きを教え続けていますが、その教え方は武道が基本になっています。また、彼の太鼓スタイルは、日本のお祭りの伝統に起因していますが、彼自身のアメリカでの体験も反映され、伝統的な太鼓のリズムにジャズ・ラテン・他のリズムなども融合されています。
彼は日本外務大臣表彰や National Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財) を受賞しました。(2005年1月27日)
父からの言葉 (英語)
ハワイ州上院議員 (1924-2012)
第二次大戦のコミュニティ形成への影響(スペイン語)
詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)
私は日本人、ペルー人・・・私は誰?(スペイン語)
今日の日系人(スペイン語)
移民の歴史(スペイン語)
パイサヘ・テレストレ(スペイン語)
移民の苦労神話(スペイン語)
アメリカでの生活に再び溶け込む (英語)
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
「ニッケイ」とは(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
アイデンティティ
ペルーにおける一世の受け入れられ方
ペルーの日本料理レストラン経営者・シェフ (1962年生)
ペルー代表 VS. 日本代表
日本に対する思い
日本の若者に対して感じること
パラグアイ駐日大使(1943年生)
日系人であること:二重の責任感 (スペイン語)
ボリビア元駐日大使 (1958-2014年)