ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

キミ・ワカバヤシ

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

移住初期のカナダでの生活 (英語)

(英語) I*: サスカチュワンに初めて来た時は、どう思いましたか?

もう忘れてしまいましたけど、でもとっても寂しかったですね。料理も出来ないし、何もわからなかったのでね。英語だって話せないし、寂しかったですよ。

I: (日本人の家族は) 何世帯くらい住んでましたか?

レジャイナに?キタノさん、ノムラさん...確か5、6世帯でしたね。

I: 彼らはいろいろと力になってくれましたか?

お買い物に連れて行ってくれましたね。そうですね、大抵お買い物でしたキタノさんという方が、同じアパートに住んでいたので、奥さんがよくお買い物に連れて行ってくれたり一緒に料理をしたりしてました。今思えば運が良かったですね。

I: 移住当初はキタガワさんのご家族と一緒に住んでいたということですね。

ええ。同じアパートでした。

I: 基本的にはいつも日本語で話していたんですか?

ええ、そうです。

I: レジャイナを離れてからは、シルカリナの店で働きましたか?

いいえ、働きませんでした。

I: ずっと家に居たんですか?

ええ、そうです。(日本語で)すぐに妊娠したでしょ。だから(笑)。

* “I”はインタビューワー(ピーター・ワカヤマ)


コミュニティ 移住 (immigration) 言語

日付: 2005年1月10日

場所: カナダ、ミッソーガ

インタビュアー: ピーター・ワカヤマ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

キミ・ワカバヤシさんは一世女性。1912年3月27日、滋賀県敏満寺(びんまんじ)に生まれました。日本で生まれ育った彼女は、日本で結婚し、1931年に夫とともに渡加し、サスカチュワン州サスカトゥーンに移住しました。サスカトゥーンでは夫が設立した織物店で働きながら、家庭を築きました。ワカバヤシ家の長年にわたる市への貢献・功績を称え、ワカバヤシの名前が道路名となりました。(2005年1月10日)

*全インタビューはDenshō: The Japanese American Legacy Projectにて見ることができます。

ビル・ハシズメ

カナダの呼び寄せシステム(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

ミッション市の日本人コミュニティ(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

ビル・ハシズメ

1954年にカナダへ帰国した理由(英語)

1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)

飯野正子

一世女性とのインタビューを通して感じたこと

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本から移民した女性としなかった女性の違い

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

飯野正子

日本人移民に興味を持ったきっかけ

津田塾大学学長、日本人の日系史専門家

PJ・ヒラバヤシ

自己表現としての太鼓(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

PJ・ヒラバヤシ

イギリスの太鼓グループ:グローバル太鼓コミュニティの形成(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・製作監督

バイロン・グレイサー

日系アメリカ人コミュニティに育って(英語)

イラストレーター、デザイナー

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

モニカ・小木曽

アルゼンチンへ移住してきた家族背景(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ビンス・オオタ

日本へ来たきっかけ(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

ビンス・オオタ

在日3年後に決めた日本永住の理由(英語)

在日日系アメリカ人デザイナー

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

フランク・ソギ

ハワイ島コナのコミュニティ(英語)

弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)