ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

パット・アダチ

第2次大戦中の収容経験あり。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー(1920年生)

父との関係(英語)

(英語) 私の父は当時ウッドワードの(音声聞き取り不能‐テープ故障)...を始めていました。私は高校生位までそこで育ちました。その後、私達一家はメイン通りとパウエル通りにある下宿屋に引っ越しました。(音声中断) 父には息子がいなかったので、私はよく父に連れられて野球を見に行きました。確か私が8歳か9歳くらいの頃からだったと思います。父は私をベンチに座らせて、ピーナッツを一袋買い与えると、私のことはもうすっかり忘れてしまうんです。でも私もすぐに野球を覚えましたけどね(笑)。そして学校でソフトボールを始めました。私はいつだっておてんばでしたね。


家族

日付: 2004年10月21日

場所: カナダ、トロント

インタビュアー: テリー・ヤマダ

提供: 世代-日系カナダ人レガシープロジェクト日系文化会館

語り手のプロフィール

パット・スミエ・カワシリさんは1920年8月8日ブリティッシュコロンビア州バンクーバーで生まれました。公立学校で学ぶかたわら、日本語学校へ通いました。父親にバンクーバーのアサヒ野球チームの試合へ連れて行ってもらったのを機に、野球へ興味を持つようになりました。 1942年にハリー・アダチ氏と結婚しました。戦中はブリティッシュコロンビア州ポポフの日本人収容所へ夫、両親、妹(姉)とともに収容され、収容所内では教師として1年生を担当しました。戦後、家族とともにオンタリオ州トレントン、まもなくしてトロントへと移住しました。以後は、さまざまな職に就きながら息子一人と娘3人を育て上げました。日系文化会館のアクティブメンバーでもあり、さらには女性保護団体や教会にも貢献してきました。 また、戦前にブリティッシュコロンビア州で活躍し、カナダ野球の殿堂入りを果たしたアサヒ野球チームの記録をつづった『Asahi Legends(アサヒの伝説)』と『The Road to the Pinnacle(頂点への道)』の作者でもあります。現在でも日系コミュニティに積極的に参加しています。 (2004年10月21日)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

両親は沖縄出身者と内地出身者の結婚反対の風潮を体験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

キミ・ワカバヤシ

見合い結婚 (英語)

日系カナダ人一世。1931年にカナダへ夫と移住。(1912年生)

シズコ・カドグチ

家族の反対をおしきりボブと結婚(英語)

日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)

エンセン・井上

日系アメリカ人家庭に育つ(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

エンセン・井上

家紋を探る(英語)

日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)

トシオ・イナハラ

家族構成(英語)

血管外科医(1921年生)

トシオ・イナハラ

12歳で1930年のフォードを運転(英語)

血管外科医(1921年生)

ジョージ・カツミ・ユザワ

1942年10月の妹の死(英語)

戦後ニューヨーク市に移住した二世の花屋。日系アメリカ人の公民権運動で活躍。(1915-2011年)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)

作家(1934年生)

ジーン・ワカツキ・ヒューストン

収容所での最初の印象 (英語)

作家(1934年生)

ロイ・ヒラバヤシ

家族で日本の伝統的お正月をお祝い(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ロイ・ヒラバヤシ

学校と家で学んだ日本語(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

別々に収容された家族(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)