ディスカバー・ニッケイ

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ワイキキで育った経験(英語)

(英語) 私は他の仲間のようにプランテーションで育ったのではありません。また(ハワイには)モイリイリやパラマなどのように、多くの日本人が住んでいたスラム地区が多くありましたが、そこにも住んだことはありません。(私が育った)ワイキキは非常に国際的なところでした。私達がカートライトロードに引っ越してきた時は、隣近所が確かポルトガル人を祖先にもつラスムッセン家オルネラス家で、とても裕福な家でした。そして反対隣りがドイツ人のドネリ家でした。このように色々な(国から来た)グループが住んでいたのです。日本人も点在する形で住んでいましたが、ワイキキに住んでいた日本人のほとんどは、私の両親のようにホテルで働いていました。モアナホテル、ロイヤルハワイアンホテル、ハレクラニホテルが(ワイキキで)大きなホテルで、あの頃はホテルといったらそのぐらいだったと思います。父は3つのホテル全部で働いていました。


ハワイ ホノルル ホテル アイデンティティ オアフ島 多人種からなる人々 アメリカ合衆国 ワイキキ

日付: 2004年3月18日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ミシェル・マキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

リチャード・ヒロミチ・コサキ博士(1924年9月14日に生まれ)は、ハワイ州ホノルルで育ち教育を受け、人生の大部分をハワイで過ごしています。第二次大戦中は、陸軍情報部(MIS)に所属し指導教官として務めたほか、アメリカ占領下の日本で通訳として従事しました。1948年ハワイ大学の学部課程を卒業、その後、ミネソタ大学で修士号と博士号を取得しました

博士課程終了後、ハワイ大学で教鞭をとるために再びハワイへ戻った彼は、コミュニティ大学の副学長、西オアフ単科大学学長、学術事務局の副局長、ハワイ大学マノア校学長代理、東海大学ホノルル校学長など勤めました。また、イースト・ウェストセンターの設立やハワイ大学のコミュニティ大学システムの確立にも貢献しました。彼の最も好きな教育哲学は「話してください、私は忘れてしまいます。教えてください、私は覚えます。やらせてください、私は学びます。」です。

コサキ博士はミルドレッド(旧姓:ドイ)と結婚し、1962年に一人息子ランドルを授かりました。(2004年3月19日)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

10代のサトウキビ畑で働いた経験が、スポーツ選手としてのトレーニングに役立つ

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

ロイ・H・マツモト

ニックネーム(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・H・マツモト

日本との戦争に対する何ともいえない感情(英語)

カリフォルニア出身の二世。第2次大戦中は、MIS(陸軍情報部)としてメリル襲撃隊にて活躍。(1913年生)

ロイ・ヒラバヤシ

太鼓演奏の哲学(英語)

サンノゼ太鼓の共同設立者・支配人 (1951年生)

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

母と祖母を見て学んだ日本の伝統(英語)

演歌歌手(1981年生)

モニカ・小木曽

日本文化の継承-日本語学校(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

フランク・ヤマサキ

人類全体への思いやり(英語)

ワシントン州出身の二世。戦時中徴兵拒否。(1923年生)

モニカ・小木曽

アイデンティティ・クライシス(スペイン語)

(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長

ジェロ (ジェローム・チャールズ・ホワイト Jr.)

家族以外の人前で歌うことはなかった演歌(英語)

演歌歌手(1981年生)

藤間勘須磨

日本舞踊を通して感じる日本人・アメリカ人の両アイデンティティ(英語)

日本舞踊・歌舞伎役者 (1918-2023)

アイコ・ヨシナガ・ハージック

アメリカ人になろうとした結果(英語)

研究者、活動家(1924-2018年)

ケニー・エンドウ

ネイティブアメリカンの居留地でのインターンシップ(英語)

和太鼓奏者・アーティスト。太鼓センター・オブ・ザ・パシフィック(Taiko Center of the Pacific)の芸術監督。(1952年生)