ディスカバー・ニッケイ

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二世兵士への絵葉書(英語)

(英語) 私の日曜学校のクラスには、初め生徒は5人しかいませんでした。が、偶然にもみな軍人の兄弟がいたんです。私にもちょうど戦争に行ったばかりの兄(弟)がいました。それで女子生徒の1人が、「二世の軍人のみんなに手紙を書きましょう」と言ったので、みんなも「それは楽しいね。」ということになったんですよ。その次の日曜日に子供たちは、それぞれがお兄さんの住所を持ち寄って、みんなで手紙を書き始めたんです。そのうち、私たちは「いくつくらい二世軍人のみんなの住所を集められるかやってみよう」ということになり、驚くべき数が集まったんです。

住所のリストはすぐに増えていって、私たちは1ペニーの切手付きのポストカードを買ったので、切手を買う必要はありませんでした。それから子供たちはみんな絵を描いたり二世軍人への想いをカードに書いた訳です。


兵士 第二次世界大戦

日付: 2003年6月16日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: カレン・イシズカ、アキラ・ボック

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

ユリ・マリー・コチヤマ氏(旧姓ナカハラ)は1922年南カリフォルニアのサンペドロで生まれました。子供のころは、素朴で、信仰心が厚く、政治とは無縁の女の子でした。しかし、1941年12月7日にハワイの真珠湾にあるアメリカ海軍基地が攻撃され、多くの日系人がアメリカ政府によって収容所や拘置所に入れられたのをきっかけに彼女の人生が変わったのです。ユリは、人種差別が行われていたアメリカ南部にあった2つの強制収容所での生活を通し、日系人とアフリカ系アメリカ人の類似点を見出しました。

戦後は、日系二世部隊に所属していたビル・コチヤマ氏と結婚し、ニューヨークに移り住みました。1960年、コチヤマ一家はアフリカ系アメリカ人地域のハーレムにある低所得者住宅に引っ越しました。このことが、ユリ・コチヤマ氏を政治の世界に引き込むことになったのです。特に1963年の米国黒人開放運動の指導者マルコムXとの出会いが彼女に与えた影響は大きく、マルコムXはその2年後に暗殺されてしまいますが、その後も黒人開放、日系アメリカ人補償運動、ベトナム反戦運動、反帝国主義運動、不当収容への反対などの政治活動家としての長い人生を送っています。

コチヤマ氏は、2014年6月1日、93歳で亡くなりました。(2014年6月)

ハワード・カキタ

不運だった親戚たち(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

息子が原爆を生き延びる希望はほとんどないと考えていた両親(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

ハワード・カキタ

核兵器についての考え(英語)

広島で被爆した日系アメリカ人(1938年生)

イワオ・タカモト

マンザナーに向かう途中での喪失

ウォルト・ディズニーとハンナ・バーベラの日本人アニメーター(1925-2007)

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガ強制収容所での祖父の話(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

モニカ・タイシャ―

フサガスガの強制収容所にいれられた祖父(スペイン語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティで歓迎を受けた家族(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士