https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/266/
日本人移民の衣服専門家・研究者
(英語) (叔母と)話をしていたら、日の丸のマークがついた日本機とアメリカ機が見えたので、私たちは機動演習をしているのかなと思ったんです。でも、空から砲弾が落ち始め、すごく危なくなってきたんです。叔母は「まぁ、機動演習は危ないわね。急いで家に帰ったほうがいいわ」と言ったので、私は彼女の家の門を出て外に出たんです。そしたら、私のすぐ近く・・・20フィートのところ・・・に砲弾が落ちたんです。約20フィートのところです。その砲弾はハオレ—(白人のこと)をハオレと呼んでるんですけど――の裏庭に落ちて、巨大な爆弾穴を開けてました。私も飛ばされて・・・砲弾の衝撃で飛ばされたんです。だから丘を駆けおりて、兄がブドウの木の枝を刈り込んでいたので、兄にその話をしました。ちょうどその時、飛行機が2機――赤いマークがついた飛行機とアメリカ機――が撃ち合いを始め、砲弾が隣の家の屋根に落ちたんです。もしその朝に隣の人が寝てたら、きっと亡くなってたでしょうね。でも、その砲弾は飛び跳ねて母の洗濯室に入ったのです。母は(中で)洗濯をしていたんですけど、数インチの差で彼女には当たりませんでした。でも母はびっくりして洗濯室から飛び出してきましたよ。母もそうですけど、近所の人たちもみんな外に出てきました。その時にはこれは本物なんだと誰もがわかってました。隣の家の人が来て兄に言ったんです。「カズマ、これは本物だよ。本物だってラジオでちょうど発表されたところだよ。日本が真珠湾を攻撃したんだ」
日付: 2004年2月19日
場所: 米国、ハワイ州
インタビュアー: リサ・イタガキ、クリッシー・キム
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
バーバラ・カワカミ氏は1921年熊本県に生まれました。彼女の家は封建時代からの農家で、そこで350年余りの歴史を持つ旧家でした。ハワイのオワフ島にあるオワフ砂糖農園で育った彼女は、仕立て屋・家政婦として働いていました。しかし、50歳を過ぎた頃、高校進学を決意し、その後テキスタイル・アンド・クロージング(繊維・衣服)の理学士号(BS)とアジア学の文学修士号(MA)を取得しました。カワカミ氏は日本人移民の衣料を専門とするストーリー・テラーであり、学者でもあります。(2004年2月19日)
第2次大戦中の陸軍語学学校での教鞭(英語)
ハワイ出身の政治学者・教育者(1924年生)
真珠湾攻撃の後の救急ステーションでの仕事(英語)
収容所への442連隊の兵士の訪問(英語)
第2次大戦中の経験(英語)
第二次大戦中にスロカンに収容。日系カナダ人コミュニティのアクティブメンバー (1918-2004)
真珠湾攻撃が家族に与えた影響(英語)
カナダの一世ビジネスマン(1918年生)
真珠湾攻撃で中断された大学生活(英語)
二世ビジネスマン。Made in Oregonの店をオープン。(1921年生)
第2次戦中の就職の困難さ(英語)
タシュメでの生活(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
年代による収容所に対する印象の違い(英語)
組織移植・臓器移植の分野においての医療研究の第一人者。(1929年生)
第2次大戦中、山中の小さな村へ避難(スペイン語)
ジャーナリスト(1937生)
大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)
二世日系パラグアイ人、研究者
父からではなく歴史の本を通して学んだ収容所(英語)
『ジャイアント・ロボット』の創設者・出版社社長
ニューヨーク市の日本人に対する戦争ヒステリア(英語)
研究者、活動家(1924-2018年)
オーシャンパークでの唯一の日系人家族(英語)
作家(1934年生)
子供の視点で見る収容所の非日系人(英語)