ディスカバー・ニッケイ

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親の結婚

父が21歳になったとき、父の父親が「そろそろ結婚しなさい」と言いました。それで父は日本に手紙を送り、「花嫁を見つけなさい」と言いました。看護学校に通っていた母は、故郷から「帰ってきて、結婚するんだから」という手紙を受け取りました。

それで彼女は看護師になる夢を諦め、以前住んでいた村のある福井に戻らなければなりませんでした。そして彼女は、知らない男性と結婚したのです。

そしてその後すぐに、彼は彼女をアメリカに連れて行きました。ご存知のとおり、彼女は家族や祖国などを後にして、見知らぬ男と一緒にこの見知らぬ場所に来なければならなかったのです。

きっと母にとってとても大変だったでしょう。母は口には出さなかったのですが、母は創意工夫に富み、機知に富んでいました。母は父に辞書を買わせ、日本語と英語の辞書を買わせ、怒ったときには父に買わせました。そして、どこへ行っても、何かが知りたいときは、「これは何ですか?」「日本語で何と言うの?」「英語で何と言うの?」といった感じで、母はそうやって英語を学んだのです。しばらくすると、母は英語をかなり上手に操れるようになりました。


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日付: 2022年5月13日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: エヴァン・コダニ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

坂田玲子さんは、1939年に生後5か月でロサンゼルスの孤児院から一世の両親に養子として引き取られました。投獄を避けるため、家族は他の日本人とともに1948年までユタ州ソルトレイクシティに移住しました。ロサンゼルスに戻った坂田さんの両親は、彼女が育ったイーストロサンゼルスでコインランドリーを経営しました。数年後、坂田さんと両親はトーランスに引っ越しました。坂田さんはトーランス高校を卒業し、カリフォルニア大学バークレー校に進学しました。結婚後、坂田さんは夫とともにオハイオ州ケント州立大学に移り、「ケント州立大学銃乱射事件」を目撃しました。坂田さんはノースカロライナ大学でビジネス開発の博士号を取得し、組織開発とビジネスの教員を務めました。坂田さんは両親が亡くなる前に南カリフォルニアに戻り、両親の手伝いをしました。坂田さんは定年退職前、32年間にわたりさまざまな業界や分野で起業家やビジネスウーマンとして活躍しました。現在はカリフォルニア州モンロビアに住んでいます。 (2023年5月)

Masato Ninomiya
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二宮 正人

奥様とのなれそめ

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)

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Wally Kaname Yonamine
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与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

1952年、戦後まもない日本での不自由な生活 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

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