ディスカバー・ニッケイ

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月に一度入国管理局にチェックインする

キャンプから出てきたら、毎月(入国管理局に)チェックインしなければなりませんでした。毎月1日休みを取り、姉のスミが仕事を休んで、ジミー、ジョージ、そして私を連れて行きました。もちろん、車で行ったことはなく、バスに乗りました。そこに着くまで永遠に感じました。だから、丸一日そこで過ごします。そこに行って、待って、何百人もの人がいます。数時間後、入国して登録し、家に帰ります。

もう一つの副次的な問題は、私たちの家族は乗り物酔いをする体質なので、バスに乗っても乗り物酔いするんです。それほど敏感なんです。目や耳、そういうものがすべて影響するんです。だから家に着く前に数ブロック降りて歩いて帰らなければなりませんでした。でも、あの頃はとにかく過酷でした。だって...。


移住 (immigration) 日系ペルー人 戦後 第二次世界大戦

日付: 2019年9月20日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: トム・イケダ、西村 陽子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズム・フリオ・セサール・ナガヌマ(永沼)は1942年7月28日、ペルーのリマで一世の両親のもとに生まれた。第二次世界大戦前、両親は洗濯業を営んでおり、父はコミュニティの中でもリーダー的存在であった。戦争が始まると、FBIは父親を逮捕し、家族全員がテキサス州クリスタル・シティにある司法省の収容所へ送られた。戦争が終わっても、一家はペルーに戻ることが許されなかったため、一家は収容所へしばらくとどまっていたが、ニュージャージー州のシーブロックバームのスポンサーを受け、収容所を離れ、その後、サンフランシスコの神道教会の教師の援助受け、サンフランシスコに移り住み、一家はそこで仕事と住居を見つけることができた。カズムはデザイン会社を設立し、成功を収めた。(2022年9月)

 

ルイス・ヤマダ

戦後、アルゼンチン定住を決意(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

戦後アルゼンチンに戻る(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

ルイス・ヤマダ

運の強い男(スペイン語)

二世日系アルゼンチン人 (1929年生)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

ブラジルへ来る船の中で

笠戸丸移民

二木秀人

先輩に触発されブラジル移民を決意

一世教育者(1911年生)

二木秀人

ブラジルでの50数年間を振り返って思うこと

一世教育者(1911年生)

ドリス・モロミサト

日系人のペルー社会への融合 (スペイン語)

詩人、沖縄系ペルー人 (1962年生)