ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1610/

移民船ぶらじる丸

そうですね。船の中では、我々は、若い人はみんな集まってどんちゃん騒ぎして、船長に怒られたり。それであと移民する人、沖縄の移民する人はポルトゲースを勉強して、政府の人がついていて。なんかすごく我々と移民の人の雰囲気が違いましたね。まあそんな感じで。まあ赤道祭とかいろんなお祭りとかなんか楽しかったですね。

ロングビーチに着きました。はじめ、ハワイに着いて、ハワイでイミグレーション終わって、それからロングビーチに着きました。で、僕は2回目だから、皆をまとめて。これは70年ですね、71年ですか。これが船の中でみんな乗っかって若い人を集めて、あの船友会、船の友の会ってのを作って。この人たちの中で残っているのが3人くらいですね、今アメリカに残っているのが。後はみんな帰ってしまいました。この人たち皆、アパートを紹介したり仕事を紹介したり、いろんなことをして、若い時に一生懸命やりました。


世代 移民 移住 (immigration) 一世 日本 移住 (migration) 戦後 新一世 アメリカ合衆国 第二次世界大戦

日付: 2015年8月4日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 渡辺 美津重

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1969年にアメリカへ初めて入国。1年半、ロサンゼルスで生活した後、半年ほど世界各地を訪問し、日本へ帰国するが、海外の生活に感銘を受け、その後再びアメリカへ戻ることを決意し、観光ビザでアメリカへ渡米。渡米当初は、庭師のヘルパーなどを2年ほどしていたが、その後独立し、正規のビザを取り、飲食業を始める。現在は、カリフォルニア州オレンジ郡とロサンゼルスを中心に居酒屋と割烹のレストラン「本多屋」を経営している。(2018年8月)

西村 俊治

借金の取立てにうんざりしブラジル移民を決意

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

渡伯初期の生活

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

パラグアイの最初の日本人移住地 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

松原由美

両親に内緒で渡米

岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。

ヘンリー・シミズ

祖母に説得されて帰加した母 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ヘンリー・シミズ

カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)

医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)

ベナンシオ・シンキ

アメリカ大陸へ (スペイン語)

日系ペルー人画家 (1932-2016年)

ピーター・ミズキ

目立ちたくない外国人(英語)

在日三世・剣道家

児玉良一

世界を見るためにブラジルへ

笠戸丸移民

児玉良一

ブラジルへ来る船の中で

笠戸丸移民

児玉良一

日本人初の運転手

笠戸丸移民

ヘンリー・須藤

日本に移住するまで日本語を話さなかった (英語)

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)