ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1511/

アイダホでのテンサイとじゃがいもの栽培(英語)

(英語)収容所ですか?ええと、収容所に入ったのは1942年でした。(1943年の)3月には兄弟4人で出ました。契約書にサインし、アイダホ州シェリーの農場に行くことになりました。テンサイの栽培、収穫もしました。じゃがいもも同様です。そして感謝祭には収容所に戻りました。ですから3月から11月まで行っていたことになります。

I*: みんなで決めたことだったのですか?兄弟みんなで?

ヘンリーが出たがっていたので、おそらく彼が父に「僕ら4人は収容所を出たい」と言ったのだと思います。1942年には父はダメだと言いました。でも、ヘンリーは外に出たがっていました。僕らが収容所に到着した直後の1942年当時から人手は必要だったのですが、まだ準備はできていませんでした。僕らは1943年に出所を希望し、その年に出ることができました。外の様子を知りたかったのです。

*I はインタビュアー(ジョン・エサキ)


農業 農業 (farming) ジャガイモ農家 甜菜 第二次世界大戦 第二次世界大戦下の収容所

日付: 2015年2月6日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

1921年9月21日、日系移民の両親、イチスケとウメ・フクハラの元にカリフォルニア州ロサンゼルスで生まれる。1927年、ジミーの父は家族を連れてカリフォルニア州サンタモニカに移住し、種苗会社を起業。ジミーはサンタモニカ高校を卒業し、1942年に家族と共にマンザナー強制収容所に送られるまで父の会社で働く。

収容所から早期出所したジミーは弟のジョージと共にペンシルベニア州に移るが、その後60日以内に陸軍に徴兵される。陸軍情報学校に志願し、基礎訓練終了後に東京に派遣され、マッカーサー元師の総司令部(GHQ)の労働局で任務に就く。日本を離れる前、ジミーは両親の親戚を探すために広島を訪問。除隊後はサンタモニカに戻り、4人の兄弟と共に1986年まで種苗会社で働く。(2016年5月)

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士