https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1381/
アメリカ陸軍情報部隊員(1916-2013)
(英語)1948年、僕らは銀座のメソジスト教会で式を挙げました。彼女のお父さん、シズコ・ナイトウ、それからお父さんの友人たちが居たと思います。式は、ごく少人数で執り行われました。
それから19… 僕らは藤沢で暮らしました。僕は、東京のNYKビルで働いていたので、藤沢から毎日電車で通いました。お父さんが僕らに部屋を提供してくれていたのです。部屋は日本庭園につながっていました。それは美しい場所で、鯉やきれいな金魚のいる大きな池もありました。1950年、ようやく僕は妻を連れて米国に帰る許可を得ました。
1950年当時、東洋人の米国入国は禁止されていました。僕の父は、市会議員に会いに行き、ワシントンの議員とのコネを利用してくれるよう、賄賂を渡していました。その後、ワシントンで法案が可決され、名前は忘れましたが、公法第7276とか大体そんな感じだったと思いますが、法の可決により彼女のアメリカ入国は許され、1950年11月、僕らはジェネラル・マンという輸送用の軍用貨物船で出航しました。横浜のすぐ外で嵐が起こり―またですよ―、季節はもちろん冬で、サンフランシスコに入港するまで嵐はついて来ました。そして電車に乗りましたが、玻満子はひどい船酔いで大変な状態でした。僕らは、ソラノ・ビーチに向かいました。そこには、叔母のすすめで僕の父が買った小さな家がありました。僕らの住む家を用意してくれていたのです。
日付: 2012年1月26日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: ジョン・エサキ、西村 陽子
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ハリー・シュナイダー氏(1916年生まれ)は、東京に駐在したアメリカ陸軍情報部隊員でした。ハリーは日系人ではありませんでしたが、事務処理能力の高さを買われ、サンフランシスコの陸軍情報部 (M.I.S.) 研修プログラムに採用されました。その後ハリーは二世兵士と共に日本語を学習することに関心を持つようになりました。第二次世界大戦直後の1948年、ハリーは妻の玻満子(はまこ)と結婚しました。第二次世界大戦終結時、アジアの「戦争花嫁」が米国へ入国するには、特別立法の制定が必要でした。1950年、ハリーと玻満子は米国に入国するため、東京の日本領事館で再び結婚し、2人は米国に渡った最初の夫婦の一組となりました。2013年6月、ハリーは97才で亡くなりました。(2014年6月)
フォート・スネリング(英語)
日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)
兵役志願(英語)
政治活動家 (1917 - 2004)
マニラから東京へ(英語)
戦時中、日本帝国軍に従軍(スペイン語)
二世日系アルゼンチン人 (1929年生)
強制収容所の話がキャリアに影響(英語)
日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事
日本人の母から見た日系人収容所
岐阜県出身新一世。 最近アメリカ市民権を取得。
刑務所で出会ったアメリカ人達(英語)
徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)
成功しなければならなかった(英語)
第二次世界大戦・朝鮮戦争の退役軍人 (1919 - 2006)
才能をもった第100歩兵大隊の人たち(英語)
「沈黙の合意」(英語)
『負け組み 』-日本敗戦認識運動
負け組みの主要メンバー
アメリカへの揺るがぬ想いと日本への共感(英語)
第1800工兵部隊の一員。戦後本田の輸出部にて、アメリカと日本の貿易を促進(1919-2020年)
休暇中にマンザナールを訪問できなかったこと(英語)
アメリカ軍へ入隊
日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)
父の第二次世界大戦への出兵(英語)
(1930年生)アメリカと日本両国で育った日本人とアメリカ人とのハーフ