https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/1340/
新一世実業家 (1927-2016年)
(英語)当時、東京にはたくさんの米兵がいました。僕は彼らを見て、「あいつら、俺たちを虐げやがって。あいつらめ」と思っていました。それが当時の僕の気持ちでした。英語を勉強したことはありませんでしたが、学校に行けば勉強するチャンスはいくらでもあるだろうと思っていました。でも、僕には勉強する気はありませんでした。
アメリカに行くことなんて考えたこともなかったし、僕らは虐げられていたので、逆にアメリカが大嫌いでした。でも、月日が流れ、ミチコに出会い結婚すると、いかにアメリカの暮らしが日本よりも良いか、彼女はずっと話していました。
同時に、朝鮮戦争もほとんど終わりを迎え、すぐに朝鮮特需への影響が出始めました。私が経営していた印刷業もそうだったように、経済が衰退していきました。僕のビジネスも不調で、収入も減っていたので、考え方を少し変えてみることにしました。アメリカ行きも悪くないかもしれない。ミチコもそう言うことだし、彼女は本当に帰りたがっている。ちょっと考えてみようと思いました。話し合いをしたり、いろんなことを考えました。行くべきか行かざるべきか、相当考えました。そして最終的に、よし、このままの状態ではうまく行かないだろうという結論に達し、それなら環境を変えて、アメリカでの生活がどういうものか体験してみよう。うまくいかなくても日本でやり直すことだってできる。だから挑戦してみようと思いました。
こんな風に渡米を決めましたが、ギャンブルのようなものでした。何もなかったんですよ。つまり、アメリカで何をしようという具体的な考えはなく、行ってみて、さてどうなるか、という感じでした。もし自分に合えば、むこうで頑張ろう。合わなければ戻って来ようと思いました。
日付: 2012年2月2日
場所: 米国、カリフォルニア州
インタビュアー: クリス・コマイ、ジョン・エサキ
提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター
ハルノリ・オダさんは、北海道で生まれ育ちましたが、第二次世界大戦後、日本を訪れていた日系二世の女性と出会い、結婚し、米国に移り住みました。オダさんはアメリカを嫌悪していましたが、妻のミチコさんに、アメリカの方がより多くの成功の機会があると説得され、そのチャンスにかけてみることにしました。英語力には限界があったものの、オダさんは、園芸業で身を起こすことに成功しました。彼は、この仕事であれば、自分の能力で最大限の成功を手にすることができるだろうと考えたのです。最終的に、オダさんは自らの園芸場の経営を始め、事業を拡大し、その後、オレンジ郡で不動産開発業者として大成しました。オダ氏は、2016年12月14日、91歳で亡くなりました。(2016年12月)
日本の男女別教育(英語)
日系カナダ人二世。池坊トロント支部を設立。(1920年生)
渡米(英語)
新一世。北米和太鼓の第一人者。1968年にサンフランシスコ太鼓道場を設立。(1943年生)
渡日の理由(英語)
日本在住のハワイ生まれの格闘家(1967年生)
大戦中の日系パラグアイ人の扱われ方(スペイン語)
二世日系パラグアイ人、研究者
1954年にカナダへ帰国した理由(英語)
1952年まで日本からカナダへ帰国できなかった二世の日系カナダ人(1922年生)
在日日系人と日本社会
津田塾大学学長、日本人の日系史専門家
日本で外国人としていることの楽さ(スペイン語)
(1969年生) アルゼンチン日系センターの前会長
故郷としての日本(英語)
在日日系アメリカ人デザイナー
日本の労働運動を調査(英語)
弁護士、MIS退役軍人、フランシス&サラ・ソギ財団創設者 (1923-2011年)
日系アメリカ人として持つ日本に対する親近感(英語)
徴兵回避のためアメリカへ帰国(英語)
日系アメリカ人二世、盆栽マスター(1914-2004年)
彼をアルゼンチンに留まらせたタンゴ(スペイン語)
『らぷらた報知』ジャーナリスト (1925-2014年)
アルゼンチンへの渡航(スペイン語)
日本からアルゼンチンへ
沖縄出身、一世アルゼンチン人 (1917年生)
カナダ政府による日本送還への圧力 (英語)
医者。日系カナダ人リドレス基金の元会長。(1928年生)